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園長のひとりごと

2021年3月のひとりごと

園長ブログ(最終のひとりごと)

今回が最終の園長ブログ(園長のひとりごと)になります。2015年(平成27年)10月に1回目のブログをスタートし、月に1回のアップを積み重ねて今回で66回になりました。歩き遍路や旅行などのプライベートなことでのひとりごとが多くなってしまったことを反省しています。

 

当施設や赤十字関係のブログとしては、「日本赤十字社常任理事会当施設視察」、「全国赤十字病院スポーツ大会」、「当施設の入所サービスおよび通所サービス」、「熊本地震の医療救護活動」、「西日本肢体不自由児施設運営協議会」、「重症心身障害とは」、「日本赤十字社中国・四国各県支部合同災害訓練」、「日本赤十字社徳島県支部創立130周年記念赤十字大会」、「障がい者虐待防止への対応」などをアップしました。

 

私の外来診療と関係したものとしては、「心身症」、「不登校」、「受動喫煙防止」、「子どもとメディア」、「学校保健委員会」、「生活習慣病予防」、「子どもの肥満」、「熱中症」、「学校の給食指導」、「摂食障害」、「スポーツのススメ」、「学校心電図検診」、「子どもの心臓病」、「愛着障害」、「心的外傷後ストレス障害」、「子どものスポーツの原則」、「新型コロナウイルス感染症の子どもへの影響」、「適応指導教室」、「子どものCOVID-19」などをアップしました。

 

このうち、学校の給食指導のブログをNHK徳島放送局の記者の方が見てくださり、ローカルニュースの中で取り上げていただきました。そのあと、NHKニュースおはよう日本でも全国放送をしていただきました。

 

四国88か所歩き遍路は、20163月に、土佐路(修行の道場)の第37番札所岩本寺から始まり、伊予路(菩薩の道場)を経て、202011月に、讃岐路(涅槃の道場)第82番札所根来寺までを打ち、ブログしました。残りは23日で第88番札所大窪寺までを打つと、いよいよ結願(けちがん)する予定です。ブログを見ていただいた、四国88か所お遍路に興味のある方からは時々お声掛けをいただきました。

 

旅行については、東北旅行(奥入瀬渓流・青森県立美術館・浅虫温泉など)、九州旅行(熊本城・天草・阿蘇・黒川温泉・湯布院など)、富士・箱根・伊豆旅行、出張日記、下呂温泉・飛騨高山・白川郷・山中温泉・東尋坊旅行、日の峰登山などをアップしました。

 

その他のブログとしては、男女共同参加、職員のメンタルヘルス、月曜日のルーチンワーク、ほほえむちから、阪田先生との別れ、社会保険支払基金審査委員会、性的マイノリティー、学生ボランティア、健やか親子21全国大会、私の研修医時代、ネクタイの話、青春の詩、ジャズトレインなどをアップしました。

私の外来を受診する中高生の中でブログを見ている子が何人かいて、診察中に話題になることもありました。

 

長い間、拙い文章の園長ブログ(園長のひとりごと)を見ていただいた方には心からお礼を申し上げます。大変ありがとうございました。

 

※「打つ」という言葉はお遍路さん用語で札所を参拝するという意味になります。かつて木製の札を本堂や大師堂の柱に打ち付けたことに由来しています。

 
 
 

2021年2月のひとりごと

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小児の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)

2021-02-01
小児の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は成人と異なる点もあるようです。昨年11月に日本小児科学会の予防接種・感染症対策委員会がこれまでの医学的知見の現状を小児の特異性や注意点を中心にまとめて報告しましたので、それを今月のブログで紹介します。
 
 まず、COVID-19患者全体において小児の占める割合は少ないということです。米国では昨年10月の時点で18歳未満は全体の8.8%と報告され、日本国内でも昨年10月の時点で10歳未満は2.4%、10~19歳では5.1%と報告されています。徳島県では今年の1月15日現在、感染者284人中、10歳未満が3人(1%)、10歳代が22人(7.8%)となっています。また小児例の多くは家族内感染であり、家族の中で小児が先行感染者になることは少ないようです。国内では昨年10月の時点で、77%の小児例は家族(特に親)から感染していました。学校や保育所におけるクラスターも報告されていますが、社会全体から見ると非常に少ないようです。
 
 小児は成人より感染しにくい可能性があるといわれています。小児からの感染力が強いかどうかについては、まだ不明であるようです。小児COVID-19症例は無症状から軽症が多く、死亡例は少なく、国内では昨年10月の時点で10歳未満の患者2,112人、10~19歳患者4,399人の中で死亡者はありませんでした。
 
 小児COVID-19の臨床的特徴は、まず初発症状については成人と同様であるものの低頻度であり、発熱は43.1%(成人では82~98.6%)、咳は43.4%(同59.4~82%)、多呼吸・息切れは12.6%(同31%)であり、呼吸困難や呼吸窮迫症候群の合併は稀です。一方、消化器症状は成人と比べて多く、下痢は6.6%(同2~3.8%)でした。成人COVID-19患者で特徴的とされる嗅覚・味覚障害は小児では訴えることが難しいこともあって実態は不明ですが、フランスの報告では18歳未満の症例の5.2%に認められています。
 
 小児のCOVID-19の治療は、ほとんどが軽症であることから、経過観察または対症療法が選択されています。国内小児症例446例はほとんどが無治療で、それ以外も5例で吸入ステロイド剤、3例で静注ステロイド剤が用いられた症例を除くと対症療法のみで、抗ウイルス薬が用いられた症例はありませんでした。
 
 学校や保育現場において小児が感染源となったクラスターの報告は国内外を通じて非常に少なく、社会での流行が家庭に持ち込まれて子どもが感染し、そこから学校や保育施設に拡大していくことが多いと考えられています。流行に対する学校閉鎖の有効性については、その他のソーシャルディスタンスと比べて効果は少なく、一方、子どもを養育している医療従事者も就業困難となり、結果的に医療資源が失われCOVID-19死亡者をむしろ増加させる可能性もあると考えられます。
 
 学校閉鎖は単に子どもの教育の機会を奪うだけでなく、屋外活動や社会的交流が減少することとも相まって、子どもを抑うつ傾向に陥らせています。就業や外出の制限のために親子とも自宅に引きこもるようになって、ストレスがたまることから家庭内暴力や子ども虐待のリスクが増すことも危惧されています。今回の2回目の緊急事態宣言では、学校閉鎖は行わないことになりました。
 
 以上のことが、昨年11月の時点での小児の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)についてのまとめですが、最終的には今回の新型コロナウイルス感染症が終息した時に総括されるのを待たなければならないと思います。

2021年1月のひとりごと

謹賀新年

 
 
 明けましておめでとうございます。
 
 皆様には、例年と変わらず、輝かしい新年を健やかにお迎えになられたことをお慶び申し上げます。
 昨年は、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が大流行し、年をまたいで未だに猛威を振るっています。当施設においては、早い段階から新型コロナウイルス感染症対策本部を設置し、継続的な施設運営が必要とされる中で、利用児者および職員の皆様の感染防止対策を実施してきました。おかげさまで、これまでのところ、当施設では利用児者及び職員全員の感染防止を行うことができました。利用児者やご家族の皆様には、これまでに経験したことのない施設生活となりましたが、施設の感染防止対策としてご理解・ご協力をいただき、大変ありがとうございました。
 
 また新型コロナウイルス感染症の医療・福祉施設経営への影響は全国的に厳しいものがありましたが、当施設においては前年度収支を維持することができています。これは、このコロナ禍の状況下においても、どうすれば断らずに通所サービスおよび入所サービスを継続できるかの姿勢で、職員全員が努力してきたおかげであると思います。
 
 令和3年(2021年)もまだまだ新型コロナウイルスとの戦いは続きます。職員の皆様には、ご自身の心身の健康には充分にご留意いただき、施設として断らない質の高い医療・福祉サービスが提供できることを心から願っています。
 
 それでは、令和3年が徳島赤十字ひのみね総合療育センターならびに徳島赤十字障がい者支援施設ひのみねにとりまして、例年と変わらずに良い年でありますように、また、このブログを見ていただいている皆様にとりましても明るく素晴らしい年となりますように心より祈念いたしまして、私からの年頭の挨拶とさせていただきます。
 
 皆様、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

2020年12月のひとりごと

讃岐歩き遍路日記3

 
 
やっと、8か月ぶりに歩き遍路を再開した。今回は一泊二日で第78番札所郷照寺から第82番札所根来寺までを打った。
 
11月13日(金曜日)曇り
 JR丸亀駅を9:00に出発した。右手に丸亀城を見ながら,県道33号線を1時間20分ほど歩き郷照寺に着いた。
 
第78番札所郷照寺(ごうしょうじ)
 行基により開基され道成寺と称したそうだ。地元では厄除けうたづ大師として親しまれている。正面に本堂,そこから石段を上がった所に大師堂がある。本堂の前に六本の手を持つ青面金剛と三猿が座る庚申堂が立つ。書院裏の庭園から宇多津の街並みと瀬戸大橋が眺められる。
 次の札所に向かう途中で,八十八歳の男性の方から般若心経を書き写した写経の接待をうけた。天皇寺はJR予讃線に沿って東へ進み,1時間40分ほど歩いた坂出市の金山の麓にある。境内のすぐ西には,日本武尊(やまとたける)ゆかりの「八十場(やそば)の泉」があり,今も絶えることなく湧き続けている。
 
第79番札所天皇寺(てんのうじ)
 保元の乱で敗れた崇徳(すとく)上皇が配流先のこの地で崩御し,境内に湧く霊水に御遺骸を浸したという言い伝えがある。その霊を慰めるために造営された白峰宮が同じ境内に建つ。この寺には山門はなく三輪鳥居と言われる大きな赤い鳥居をくぐって境内に入ると,左手に本堂や大師堂,地蔵堂,鐘楼などが建つ。境内には参拝客が一人もいなくて閑静な雰囲気であった。地元では「高照院」と呼ばれる。
 次の札所へはJR予讃線に沿って進み,JR鴨川駅からは綾川に沿って歩いた。国分寺の手前に有名な手打ちうどんの店があり,ここで昼食を頂いた。
 
80番札所國分寺(こくぶんじ)
 仁王門を入ると左右に四国八十八ヵ所の石仏が並び,参道の右手には,七重塔跡の心礎と礎石15基が並び,本堂手前には金堂の跡を示す大きな礎石33基がある。閻魔堂と鐘楼の間を抜けると,鎌倉時代再建の本堂に出る。鐘楼の銅鍾は四国最古級といわれ,大蛇伝説でも知られている。かつての寺の敷地は東西220m,南北240mの広大なものであったそうだ。
 國分寺の参拝を終え,徒歩約5分の国分駅(こくぶえき)から高松駅までJRに乗り,駅前にある大きなホテルに宿泊した。夕食は歩き遍路のご褒美にフレンチディナーを頂いた。最上階の広いレストランは早い時間帯だったので,私達だけで独占できた。
37日目:JR丸亀駅から88番札所国分寺まで、17.5km31,000
 
1114日(土曜日)晴れ
 国分駅まで戻り,8:00に歩き始めた。國分寺を過ぎるとすぐに左折し,五色台に向かってゆっくり,ゆっくりと登り始めた。國分寺を見下ろす最初の休憩所を過ぎると,88ヵ所最後の「遍路ころがし」である急坂がはじまった。途中に広大な自衛隊演習所があった。
 
81番札所白峯寺(しろみねじ)
 標高約350mの白峰山に建つ。境内入り口の門は,五つの屋根瓦をもつ高麗門形式の「七棟門」がある。境内の右側には御成門があり,その中に客殿や護摩堂がある。参道正面に崇徳上皇の御廟所,頓証寺殿(とんしょうじでん)があり,その手前の石段をあがると本堂,大師堂,千体阿弥陀堂,役行者堂,薬師堂などが立つ。境内はカエデの紅葉が真っ盛りであり,秋の深まりを感じた。
 根来寺へは尾根道であるがアップダウンが続き,約1時間半かけて歩いた。途中の山中で,高松駅で買ってきた穴子飯とタコ飯の弁当をおいしく頂いた。
 
82番札所根来寺(ねごろじ)
 五色山の一つ,青峰山の山頂近くに建つ。青々とした松が多いが,ここのカエデも紅い色が濃くて見事であった。山門近くの茂みには,化け物,牛鬼像が立つ。仁王門を入って石段を下り,再び石段を上りつめると左手に延命地蔵と牛鬼像,右手に仙人姿の役行者像が立つ。
さらに少し上がると,右に大師堂,左に五大尊堂,その前には,樹齢千六百年といわれる「白
猴ケヤキ」がそびえる。さらに数十段の石段を上がった所に本堂がある。
 根来寺の山門を出たところで次の一宮寺に向かう遍路道のマークがはっきりせず,少し歩いた所で地元の人に尋ねたが,旧遍路道は解らないとのことであった。JR鬼無駅に向かおうと地図を頼りに歩いたが,1時間以上歩いてなんと根来寺まで戻ってしまった。歩き遍路での最長の迷い道であった。こんな時の合言葉は「これも修行やな」であった。結局,根来寺までタクシーを呼んで,JR香西駅まで送ってもらった。
38日目:JR国分駅から第82番札所根来寺まで、15.0km34,000
 

2020年11月のひとりごと

適応指導教室(教育支援センター)

 
 
 不登校の子どもたち(学校に行けなくて困っている子)の居場所の一つとして、適応指導教室があります。最近、この適応指導教室は教育支援センターと呼ばれるようになりました。これは市町村の教育委員会が長期に欠席をしている不登校の小中学生を対象に市町村の公的な施設のどこかに部屋を用意し、そこで学習の援助などをしながら本籍校に復帰できることを目指し運営している教室です。
 
 適応指導教室に参加していることは学校への出席として扱われる場合が多いようです。担当者は、市立の小中学校の教員か、もしくは退職した元教員や臨床心理士(公認心理師)などがあたっています。ここでは、単に学習の援助だけでなく、通所してくる子どもたちの力を広くはぐくむための支援を行っています。また、登校しづらい子どもの保護者をサポートすることも役割となっています。
 
 小松島市にある教室は「はなみずき学級」と呼ばれ、全国でも珍しい、一市二町で運営される、上勝町・勝浦町・小松島市適応指導教室となっています。私はこの教室が発足する時からかかわらせていただき、これまで担当の先生方のスーパーバイズや年に3回開催される保護者会の講師を務めてきました。また私が外来で診ている子どもたちも、毎年、数名が参加しています。
 
 徳島県では最初に徳島市の「すだち学級」が開かれ、その後に鳴門市の「うず潮教室」、阿南市の「ふれあい学級」、藍住町の「キャロッ子学級」、阿波市の「阿波っ子スクール」、石井町の「わかば教室」、美馬市の「みまっこ教室」、北島町の「ステップきたじまっ子」、三好市の「そよかぜ学級」、吉野川市の「つつじ学級」、上板町子ども若者相談支援センター「あい」、松茂町の「はぐくみ」などが開かれています。
 
 今は、学校には向かえないが、外出することができる子どもさんは、この適応指導教室を居場所として利用してみてはどうでしょうか。まずは見学から始めてみましょう。

2020年10月のひとりごと

讃岐歩き遍路日記 2

 
 
徳島県での新型コロナウイルス感染症がやっと落ち着いてきましたので、大変遅くなりましたが、讃岐歩き遍路日記の3日目、第72番札所曼荼羅寺から第77番札所道隆寺までを報告します。
 
322日(日)曇り
 涅槃の道場、3日目の讃岐歩き遍路は、いやだに温泉を7:45に出発した。池に向かってのゴルフの打ちっぱなし場がある、大池というため池のほとりを通り、約1時間歩いて我拝師山(がはいしやま)の麓にある73番札所出釈迦寺に着いた。700m離れている72番札所曼荼羅寺より、少し高い位置にあるのでこちらを先に参拝することにした。
 
73番札所出釈迦寺(しゅっしゃかじ)
 背後の我拝師山(がはいしやま)に、幼い大師が断崖から身を投げたという捨身ヵ嶽禅定(しゃしんがだけぜんじょう)がある。山門をくぐると左手に葉が三本の子宝の三鈷(さんこ)の松があり、こじんまりした境内には本堂、大師堂が軒続きで並んでいる。
 出釈迦寺から歩いて7分ほど下った所に72番札所曼荼羅寺がある。
 
72番札所曼荼羅寺(まんだらじ)
 本堂の内部には弘法大師の心の空間を表したという曼荼羅が広がっている。本堂の前に西行がその上で昼寝をしたという昼寝石がある。かつて境内には大師お手植えの「不老松」が立っていて、大きく笠を広げたような形をしているから笠松と呼ばれていたが、今は枯れてしまっている。
 曼荼羅寺から74番札所甲山寺までは3.8kmの距離であり、1時間ほど歩くと到着した。
 
74番札所甲山寺(こうやまじ)
 裏山の形が毘沙門天の甲冑に似ているので寺号を甲山寺としたという。嵯峨天皇の勅願により満濃池修築を任じられた大使は、難工事を3カ月で完成させた功労金の一部で甲山寺を建立し、薬師如来を本尊として安置した。境内に子宝を願う女性の信仰が厚い子安観音像がある。
 甲山寺から75番札所善通寺までは1.6kmの距離であり、途中で四国こどもとおとなの医療センターと隣接する香川県立善通寺養護学校の前を歩いた。そこから400mほど真っ直ぐ進むと,真言宗善通寺派の総本山である善通寺に着いた。
 
75番札所善通寺
 弘法大師誕生の地である善通寺は広大な境内で,伽藍と呼ばれる東院と誕生院と呼ばれる西院に分かれる。東院には金堂と呼ばれる本堂や五重塔(高さ45.5m)があり,塔前には樹齢1,900年の楠の大木がある。東院から参道を通り,仁王門をくぐると西院に入る。西院には御影堂(大師堂),地蔵堂,本坊,宝物館などがあり、納経所もこの院にある。
 次の札所金倉寺までは1時間ほど歩いたが,途中で楽しみにしていた讃岐うどんの店に寄った。11:15に私たちが入った時に店は空いていたが,11:30にはあっと言う間に行列ができた。
 
76番札所金倉寺(こんぞうじ)
 日本で初めて鬼子母神(訶梨帝母尊:かりていもそん)が現れたという寺。仁王門から一直線に参道が伸び,正面に本堂が建つ。乃木希典将軍が善通寺第十一師団長を務めていたとき,本寺の客殿を宿泊所にしていた。妻の静子夫人が東京から面会に来たが,乃木将軍は会うことを拒否する。夫人はしばらくの間,境内にある松の木の下に佇んでいたという。この木が「乃木将軍妻返し松」としてあった。
 次の札所道隆寺までも約1時間かけて歩いた。道隆寺の少し手前で,地蔵さんの小さな焼き物をお接待として頂いた。これは障害のある子どもさんが制作されたものを、そのご両親が「歩き遍路」にお接待していた。
 
77番札所道隆寺(どうりゅうじ)
 四国の鉄道発祥の地であるJR多度津駅の近くにある。境内には日本全国の観音像およそ300体が祭られている。仁王門も仁王像も四国霊場で最大級といわれる。目の病に霊験があるという潜徳院殿堂は本堂裏手の左奥に建つ。
 道隆寺から12分ほどにあるJR多度津駅まで歩き,高松駅経由で徳島駅まで戻り帰途に着いた。
 
 
 
36日目:いやだに温泉からJR多度津駅まで,約19km29000
 
 新型コロナウイルス感染症流行のため、四国88か所歩き遍路も、第77番札所道隆寺でストップしています。あと3泊4日で結願しますので、再開できることを心待ちにしています。

2020年9月のひとりごと

新型コロナウイルス感染対策の子どもへの影響

 
 社会全体の感染防御対策を行う前に、政府は令和2年2月27日に、全国全ての小学中学校、高等学校、特別支援学校について、3月2日から春休みまでの臨時休業を行うよう、突然、要請しました。さらにその後も、学校休業は4月、5月と延々と繰り返されました。そして今年の夏休みは短縮され、子どもたちは猛暑の中を登校し、授業を受けることになりました。この間の問題の根源は、あまりにも唐突で無策な政府の対応にあると思われます。感染拡大を防ぐのが目的ならば、なぜ子どもたちだけ、なぜ突然に明日から、そしてそれに伴う教育や生活の保障、教育環境や家庭環境の保障なく行われたのでしょうか。私はどこかでこれをきちんと検証されなければならないと思います。
 
 学校が再開されますと、教育現場では過剰で、過敏すぎる感染防止対策が行われました。ウイルス感染を受けるのを防ぐ効果のないマスク着用(感染を広めるのを防止する効果は認められている)を猛暑の中も強要し、ソーシャルディスタンスなどとても不可能な学校現場で、それを行おうとしたり、大きな声を出すことを禁止したり、教師がフェイスシールドをして授業をしたり、私にはどれも過剰な対応と思われました。
 
 そして、連日の恐ろしい新型コロナウイルスについての報道や行政の発表は、子どもたちに、特に発達の問題や心の問題のある子どもたちには、強い不安感や恐怖感を与えました。学校はもとより病院をも受診することもできなくなる子が続出し、治療が後退することを余儀なくされました。不登校で困っている子どもに支援を行い、力を蓄えてやっと前向きになり新学期から登校しようとした矢先に、2か月間の休校は再登校する子どもにはとても厳しいものがありました。また、ステイホームの勧めで家族との距離感は異常に近づき、それでなくても家族間の葛藤やトラブルの多い彼らは、家庭内でもストレスをかかえ、親子とも苦しみ、疲弊してしまうこともありました。
 
 今後、同じような非常事態宣言がだされ、教育現場での対応が更に必要になった時には、感染予防と教育を受ける権利を守ることを両立するために、厚生労働省と文部科学省は本気で知恵を出し合っていただきたいと思います。この間、子どもたちの教育を受ける権利が侵害されたこと、学校休業によりどれだけ感染予防ができたかなどについて検証し、深く反省すべきであると思います。ちなみに、オーストラリアでは他の国と異なり、新型コロナウイルス感染のパンデミック下でも学校の休校が義務付けられることはありませんでしたが、罹患者の積極追跡や迅速隔離などの適切な対応を講じれば、学校は安全に開講できたと報告しています。このことは我が国においても教育現場で重要なことは、予防対策よりも罹患者の迅速な対応であることを示していると思われます。 

2020年8月のひとりごと

子どもの権利とスポーツの原則

 
 私はいつも、心身の健康のためにスポーツを楽しむことススメてきました。ところが、私の心身症外来には、体育の授業や運動部の指導者による言動で心身の健康を害した子どもの受診が以前から後を絶ちません。成長期の子どもに食事制限や減量を指示したため摂食障害をきたしたり、厳しい指導や体罰のため登校できなくなったりする子どもがいます。どのケースも治療するのに長期間を要します。全国的には、2013年に高校バスケット部の強豪校で顧問の体罰を苦に部員が自殺するという事件が発覚し、大きく取り上げられました。
 
 私たちはスポーツを楽しむ権利があります。スポーツにおける子どもの権利の侵害に対して強い憤りを感じます。このことに関して、わが国では二つの大きな動きがあったので紹介します。
 
 その一つは、2011年に制定された「スポーツ基本法」です。それは、スポーツに関し基本理念を定め、並びに国及び地方公共団体の責務並びにスポーツ団体の努力等を明らかにするとともに、スポーツに関する施策の基本となる事項を定めるものです。その前文に「スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは、すべての人々の権利」および2条2項に「青少年のスポーツが体力の向上と人格形成に大きな影響を及ぼす」などが謳われています。また日本スポーツ協会は日本オリンピック委員会とともに日本のスポーツ100周年を記念して同じく2011年に「スポーツ宣言日本」を発表しました。その最初の一文が「スポーツは、自発的な運動の楽しみを基調とする人類共通の文化である」です。部活動などで、スポーツを手段として協調性や努力の大切さなどを子どもたちに教育することは良いことだと思いますが、スポーツを文化として捉えるなら、“やらされる”とか、“練習を強制する”といったことは起こりえないはずです。
 
 次の大きな動きは、2018年に日本ユニセフ協会が「子どもの権利とスポーツの原則」を策定したことです。それは次の10の原則からなります。
 スポーツ団体とスポーツに関わる教育機関、スポーツ指導者に期待されること
01子どもの権利の尊重と推進にコミットする
02スポーツを通じた子どものバランスのとれた成長に配慮する
03子どもをスポーツに関係したリスクから保護する
04子どもの健康を守る
05子どもの権利を守るためのガバナンス体制を整備する
06子どもに関わるおとなの理解とエンゲージメント(対話)を推進する
 スポーツ団体等を支援する企業・組織に期待されること
07スポーツ団体等への支援の意思決定において子どもの権利を組み込む
08支援先のスポーツ団体等に対して働きかけを行う
 成人アスリートに期待されること
09関係者への働きかけと対話を行う
 子どもの保護者に期待されること
10スポーツを通じた子どもの健全な成長をサポートする
 
 スポーツにおける子どもの権利の保護と推進を行い、全ての子どもがスポーツを楽しみ、スポーツをすることで心身が健康になることを心から願っています。

2020年7月のひとりごと

月曜日のルーチンワーク2020

 私の月曜日の日課を4年半前のブログで報告しましたが、少しずつ変化してきましたので2020年版を報告します。
 
 朝は前日の就寝時間にかかわらず、必ず午前5時50分に起きます。朝食は食パンの日がほとんどで、ゴーヤジュースか野菜ジュースのどちらかとコーヒー、果物はリンゴ、バナナ、ミニトマト、キューイ、イチゴなどの中から二品、それとヨーグルト、野菜を食べます。朝食後、6時25分から10分間、NHKのテレビ体操(みんなの体操とラジオ体操)を必ず行います。その後、テレビのニュースを見ながら新聞2紙に目を通します。
 
 朝、7時40分に車で家を出ますが、自宅からひのみね総合療育センターまでは距離が近いので7時50分頃には着きます。ゆっくりとメールを見たあと、その日の外来受診予定の子どものカルテに目を通します。そして8時30分から管理部のミーティングを行います。9時からは外来診療を行い、その後、毎週月曜日の11時半から開かれる医局会にでます。昼休みは持参の弁当を食べてコーヒーを飲みます。その後、たくさんの決裁に目を通しハンコをつきます。
 
 午後は1時から2時半まで外来診療を行い、その後は徳島赤十字病院小児科外来で診療を行います。病院までの往復は散歩の時間でもあり、よい気分転換になります。私の外来はひのみね総合療育センターも赤十字病院も、主に心身症や摂食障害、不登校などの心身医学領域の疾患のある子どもたちの診療です。外来が終わると5時半ごろに一旦、療育センターに帰ります。メールを見たり、午後の報告を受けたり、急ぎの決裁があればそれを行います。そしてなるべく午後6時までには、お先に失礼するようにしています。
 
 帰宅すると、夕食をとった後、急いで赤石にある小松島市立体育館まで行き、硬式テニスを行います。午後7時から9時半までばっちりプレーします。これは35年間ずっと続いているので、私のルーチンワークになっています。テニスが終わり自宅に帰ってからは入浴し、その後、報道ステーションを見ながらビールと赤ワインをたくさん飲みます。そして午後11時までには就寝するようにしています。これが私の最近の月曜日のルーチンワークです。
 

2020年6月のひとりごと

日峰山登山

 全国の施設長会議などに出席すると、時々「なぜひのみね総合療育センターなのですか」と聞かれます。私の母校、児安小学校の校歌の出だしは「秀麗(しゅうれい)高きひのみねの・・」です。当センターの北側にある山が日峰山(ひのみねさん)なので、徳島赤十字ひのみね総合療育センターの名称となっています。先日、久しぶりに日峰山に登りました。
 
 日峰山は標高191.6mの山で、中津峰山(標高773m)、津乃峰山(標高284m )とともに阿波三峰の一つに指定されています。山頂には桜の名所としても知られる日峰神社があり、北は紀伊水道や鳴門・淡路方面、天気がよければ和歌山も遠望することができます。また、南を見下ろすと当センター、小松島港、和田岬が一望できます。
 
 午前11時に自宅を出発し、約30分歩くと登り口の桂林寺に着きました。ここからの山道は結構な急坂であり、汗をかきながら約30分かけて日峰神社がある頂上まで登りました。日峰神社には蟹の絵馬が奉納されており、蟹は神様のお使いと言い伝えられているようです。参拝を終え、神社の南側から展望した当センターの写真(航空写真?)を撮りました。
 
 日峰神社から少し下った所にある日峰公園展望台のベンチに座り、昼食の鯛めし弁当を頂きました。ここから北側に下ると、大神子海岸までの遊歩道があり、途中には遊具やアスレチック、テニスコートなどを備えた日峯大神子広域公園があります。私たちは東方面の尾根伝いを歩き、元根井漁港に下る遊歩道コースを選びました。東の峰に向かうドライブウエイを少し上った所にある遠見ヶ原展望台を通り、そこから遊歩道に進みました。
 
 遊歩道は四国ミニ八十八ヵ所になっており、一番高いところにある88番大窪寺の石碑をスタートしました。丁度、今年はうるう年であり、逆打ちをするとご利益が多いようなのでラッキーでした。短い間隔で札所の石碑が並んでおりお参りするのが忙しいほどでした。ミナト展望台から左に折れれば、土佐、伊予、讃岐、阿波路の周回遊歩道もありますが、今回はそれパスしてそのままミニ八十八ヵ所を進みました。
 
 途中には休憩所や展望台が整備されており、紀伊水道や小松島港、和田岬などを素晴らしく眺望できました。更に下っていくと新緑に映えた真っ白の小松島灯台に出会いました。そこから登り口まで降りると2番極楽寺の石碑があり、そこで山道は終わりました。さて1番霊山寺の石碑は何処にあるのだろうかと探すと、登り口から100mほど離れた元根井漁港沿岸の観音波寺にそれを見つけました。
 
 元根井漁港沿岸の住宅街を進み、徳島赤十字病院の北側の遊歩道を歩き、JR中田駅から南へ田植えの終わった田んぼ道を通り、出発から3時間30分後に自宅に到着しました。歩数は約20,000歩であり、私たちにとっては本当の歩き遍路に比べると楽勝でした。また途中の山道で出会った人は、たったの二人だけでした。

2020年5月のひとりごと

子どもの心的外傷後ストレス障害(PTSD)

 
 全国に非常事態宣言が出て学校が一斉休校になってしまった状況で、新型コロナウイルスに子どもが感染すると、心的外傷後ストレス障害(PTSD)になるかもしれないということが危惧されます。
 心身症外来をしていると、子どものPTSDと診断される症例を時々経験します。私が子どものPTSDを最初に診断したのは平成14年であり、今までに10例以上の診断・治療を行ってきました。平成15年に開催された第21回日本小児心身医学会(茨木県つくば市)で私が発表した「級友から受けた暴行によりPTSD(心的外傷後ストレス障害)を来した2症例」は、翌日の朝日新聞全国版で取り上げていただきました。
 
 日本でPTSDが広く認識されるようになったのは、平成7年に起こった阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件でした。子どものPTSDもこの頃から注目されはじめ、最近では大きな自然災害や事件・事故があると、初期から「心のケア」の提供の必要性が述べられるようになりました。私も子どもが亡くなった県北の中学校と県南の小学校に出向き、児童生徒の心のケア(PTSD予防)を行った経験があります。
 
 大きな自然災害や事件・事故に子どもが遭遇すると、恐怖や喪失体験などにより心に傷を受け、その時のできごとを繰り返し思い出したり、遊びの中で再現するなどの症状に加え、情緒不安定、睡眠障害などが現れ、生活に大きな支障を来すことがあります。こうした反応は誰にでも起こりうることであり、ほとんどは時間の経過とともに薄れていきますが、このような状態が1ヶ月以上長引く場合を心的外傷後ストレス障害(PTSD)と言います。ちなみに、1ヶ月以内の状態は急性ストレス障害(ASD)と言います。
 
 ストレスの受け方や影響は人によって大きく異なりますが、そのほとんどは時間の経過とともに薄れ消失していきます。ストレスには、日常的なストレスの他に「①ショッキングな非日常的ストレス」や「②逆境・辛いできごとによるストレス」があり、特に①の場合は、PTSDになる可能性があります。たとえば、災害で家や家族・友人を失う、事故を目撃する、犯罪に巻き込まれるなど、またいじめや恐喝、DVの目撃など、強い恐怖や衝撃等を受けた場合は、不安や不眠などのストレス症状が現れ、日常生活に大きな支障をきたすことがあります。これが長引くとPTSDになる可能性がありますので、早期の対応と予防を心がけることが大切です。
 
 PTSDの主な症状をまとめると次の3つに分けられます。①持続的な再体験(体験したできごとを繰り返し思い出し、悪夢を見たりする。体験したできごとが目の前で起きているかのような生々しい感覚がよみがえる:フラッシュバック。など)、②体験を連想させるものからの回避や感情が麻痺したような症状(体験したできごとと関係するような話題や場所を避けようとする。体験したできごとを思い出せない。人や物事への関心が薄らぎ、周囲と疎遠になる。など)、③感情・緊張が高まる(よく眠れない、イライラする、怒りっぽくなる、落ちつかない。物事に集中できない、極端な警戒心を持つ、ささいなことで驚く。など)
 
 小学校低学年頃までの子どもは、自分が体験したストレスを言葉などでうまく表現できず、自分の好きな人形やグッズを離そうとしない、ままごとで自分が体験したことを表現するなどの行動となって現れることがあります。いじめ、性的被害などの体験は、多くの場合、自分から語ろうとしません。
 
 自然災害、事件・事故などの後、子どもにこのような症状が見られたり、その他にも心配な症状や様子が見られたら、早期に学校(担任、養護教諭など)や医療機関(医師、公認心理士など)に相談していただきたいと思います。
 
 
 
参考資料:文部科学省スポーツ・青少年局学校健康教育課(発行)
     (財)日本学校保健会「心の健康つくり推進委員会」(協力)

2020年4月のひとりごと

讃岐歩き遍路日記1

3月20日(春分の日)晴れ
 讃岐路「涅槃の道場」を令和2年の春分の日にスタートした。今回は2泊3日で雲辺寺登り口からJR多度津駅まで歩いた。JR阿波池田駅からタクシーで雲辺寺登り口の池田町佐野まで行き,8:30から歩き始めた。涅槃の道場の始まりである66番札所雲辺寺は徳島県三好市池田町白地にある。雲辺寺は四国88か所の中で標高が最も高い位置にあり(本堂が標高900m付近)、急勾配を2時間半かけてゆっくりと登った。歩き始めがいきなりのきつい登りであったのでかなり厳しい修行となった。
 
第66番札所雲辺寺
 四国高野と呼ばれ,大勢の僧侶たちの学問道場として隆興を極めたとのこと。仁王門を通り広大な境内に入ると,本堂,大師堂,護摩堂,鐘楼などが建ち並んでいた。持仏堂の脇には茄子の形をしたブロンズ製の腰掛があり「おたのみなす」と記されていたので、そこに座って祈願した。境内に向かう参道には五百羅漢像が建ち並び,その表情は一体ごとに異なっていた。雲辺寺は悪行を償わなければ先に勧めない関所寺の一つだが,私たちはここもクリアできた。
 雲辺寺からはひたすらの下り坂で2時間かけて,やっと麓についた。下り坂になるといつも私は膝が、連れ合いはふくらはぎが痛くなる。
 
第67番札所大興寺(だいこうじ)
 地元では小松尾寺の通称で知られているそうだ。四国一大きいといわれる仁王門をくぐると,弘法大師お手植えで樹齢1200年の榧(かや)と楠(くすのき)の老樹が並んでいた。本堂には何本もの願いを書いた赤いろうそくの火がゆらめき,これは七日燈明とよばれ7日間ろうそくを灯し祈願してくれる。
今日は、大興寺から歩いて1時間ほどの所にあるかんぽの宿に宿泊した。夕食は手の込んだ料理が出てきて美味しかった。
第52日目:池田町佐野からかんぽの宿まで19km、38,000歩
 
3月21日(土)晴れ
 かんぽの宿を8:00に出発し,1時間半かけて県道6号線を歩き、四国霊場唯一の一山二霊場の神恵院と観音寺に到着した。
第68番札所神恵院(じんねいん)
 仁王門を通ると石段を上り,広い境内に入る。ここにも大きな楠(くすのき)があり,これを挟んでコンクリートと白木を組み合わせたモダンな建物の本堂がある。回遊式立体庭園である巍巍園(ぎぎえん)はツツジの名所としても有名であり,また6月には参道をアジサイが埋め尽くしアジサイ寺となる。境内の隅には納経所があるが,観音寺の納経所も同じ場所に置かれていた。
第69番札所観音寺
 地元の人々から「おかんおんさん」と親しく呼ばれている。山門は神恵院と同じで二つの寺の名前が書かれていた。本堂は室町時代に建てられて国の指定重要文化財になっている。鐘楼の四隅に龍を配した雲海模様の彫刻もみごとで,横柱の間には天邪鬼(あまのじゃく)の彫り物があり,屋根を両手で支えているように見える。境内にある茶屋で温かい甘酒を頂いた。
 観音寺を出てから財田川沿いを歩いた、堤防には水仙の花がたくさん植えられており気持ちよく約1時間歩いて本山寺に着いた。
第70番札所本山寺(もとやまじ)
 弘法大師が一夜で建立したとの伝承を持つ,一夜建立の寺である。本堂は国宝で一重の本瓦葺き,円柱の珍しい仁王門は国の重要文化財,明治末期に建立された美しい五重の塔は本山寺のシンボルである。本尊は馬頭観世音菩薩で,境内に実物大の二頭の馬の像があった。
 次の札所弥谷寺までの歩きは3時間半を要した。弥谷寺は標高382mの弥谷山の中腹にあり,540段の石段が続き,遍路泣かせと言われる。前回歩いた時には、途中に名物の俳句茶屋があったが、今回は老朽化のために改修中であった。
第71番札所弥谷寺(いやだにじ)
 仁王門から石段を上がっていくと大きな藪椿と並んで金剛拳菩薩が立っていた。大師堂裏にある奥の院は,弘法大師が子どもの頃に修行を積んだとされる獅子の岩屋がある。納経所は大師堂の中にあった。大師堂からさらに奥の石段を上がってゆくと,岩壁に浮き彫りの石像,阿弥陀三尊摩崖仏がある。その先に,背後に岸壁からせり出すように本堂が建っていた。本堂までの石段が160段あり最も長くて一番きつかった。
 今日は、弥谷寺を下った所にある天然いやだに温泉の宿泊施設に泊まった。
第53日目:かんぽの宿からいやだに温泉まで22.5km、40,000歩
 3日目の讃岐歩き遍路は、5月のブログで報告します。
 

2020年3月のひとりごと

2020年2月のひとりごと

伊予歩き遍路日記6

112日(土)晴れ時々曇り
 令和になり最初の歩き遍路に出かけた。今回は2泊3日でJR伊予西条駅から雲辺寺の登り口の池田町佐野までを歩いた。暑くもなく寒くもなくの3日間、良い天気だった。10:30にJR伊予西条駅を出発し、国道11号線やそれに沿った遍路道を歩いた。昼食は持参したおにぎり弁当をスーパーマーケットの休息コーナーで食べた。
西条市から新居浜市、四国中央市を歩いたが、遍路道沿いは住宅が多く人口は多いように感じた。ただ遍路道を歩いていていつも思うことは、どこに行っても人の住んでいない空き家が目立つということだ。四国中央市関川という所まで進んで、16:00頃に歩きを終了し、タクシーを呼んで宿泊するJR新居浜駅前の小さな大浴場があるビジネスホテルまで送ってもらった。
49日目:JR伊予西条から四国中央市関谷まで20km, 31.000歩
 
113日(文化の日)曇り
 8:00に四国中央市関川から歩き始めた。国道11号線に沿った遍路道を約12km歩き、伊予三島寒川町(さんがわちょう)の辺りで神社の入り口に座って昼食を摂った。途中のコンビニで買ったサンドイッチを食べた。しばらく歩くと遍路道は松山自動車道をくぐり、自動車道に沿って2.5km進んだ戸川公園の辺りから、いよいよ三角寺のある平石山の登りとなった。三角寺は標高353mの高さにあり、1795年(寛永7年)この寺を訪れた小林一茶が感嘆して「これでこそ 登りかひあり 山桜」と詠んだといわれるが、今までいくつかの遍路転がしをクリアしてきた私たちにはこの登りはどうってこと無かった。
65番札所三角寺
 伊予の関所寺で子授け祈願で人気があり、多くの女性が訪れている。72段の急な石段を上り山門にたどり着くと鐘が釣られている。この鐘を撞いて境内に入った。88か所の中で山門に鐘あるのはこの寺だけだそうだ。大師堂、薬師堂はここから少し上にあり、大師堂の横には立派な延命地蔵尊が立っている。弘法大師はこの寺で21日間の秘法を修したといわれるが、その際の三角形の護摩檀の跡が本坊にある三角の池で、寺名もこれに由来しているそうだ。
 三角寺駐車場までタクシーを呼び、JR伊予三島駅まで送ってもらい、特急しおかぜに乗りJR新居浜駅で降り、歩いて昨日と同じホテルまで帰った。
50日目:四国中央市関川から第65番札所三角寺まで20km, 36.000歩
 
114日(月)曇り時々晴れ
 昨日と同じ交通機関を利用し三角寺駐車場まで来て、そこを8:00に出発した。狭い自動車道を3.5km下った所で県道5号線と交差したが、県道を5~6分下った所で遍路道からずれているのに気が付き引き返した。ゆらぎ休息所を右折するのが遍路道なのだが、うっかり遍路マークを見落としてしまった。しばらく歩くと遍路道は高知自動車道をくぐり1.3kmほど進むと番外札所常福寺(椿堂)のところで池田に向かう国道192号線に出た。国道192号線は四国自動車道ができる前に、松山までよく利用した道路であり懐かしかった。
 2.5km歩いて川滝町にある立派な遍路小屋で休憩し、山を眺めながら昼ご飯を食べた。しばらく進むと県境を越えるところまで来た。県境を越え得るコースは、標高340mの峠を越える旧来の遍路道、頂上車道まで標高差400mの登り坂の境目トンネルを抜ける国道192号線、国道分岐を右に行く距離は長いがゆるやかな登り坂の3つのコースがあった。私たちは境目トンネルを抜けるコースを選んだ。長さ855mのトンネルは車の激しい騒音と風圧で、まさに修行であった。雲辺寺の登り口の池田町佐野で今回の歩き遍路を終了した。JR阿波池田駅までタクシーで行き、特急剣山でJR徳島駅まで帰り、16:00には自宅まで帰ってきた。
 今回の第65番札所三角寺で21日間かけて歩いた伊予路「菩薩の道場」を打ち終え、次回からはいよいよ讃岐路「涅槃の道場」を打つことになる。
51日目:第65番札所三角寺から池田町佐野まで13.5km, 28,000歩

2020年1月のひとりごと

謹賀新年

 皆様、新年明けましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 
 いよいよ令和2年になり東京オリンピック・パラリンピックが開催される年が明けました。当施設としても気持ちを新たにして、基本理念であります「利用される皆様と心を通わせ、質の高い医療・福祉サービスを提供し、豊かな生活に向けての支援を行います。」の実現に向けて努力したいと思います。
 
 この基本理念の実現に向けて、今年も二つのキーワードを掲げます。その一つは「質の高い医療・福祉サービスの提供」と二つ目は「断らない医療・福祉サービスの提供」です。
 質の高い医療・福祉サービスを提供するために必要なことは、職員一人一人がそれぞれの人間性と専門性を高めることです。専門性が優れていても人間性が劣っている人は質の高い良い仕事は出来ません。
それでは人間性を高めるにはどうすればよいのでしょうか、私は、それは人間力を高めることであると思います。人間力とは何でしょうか? 人間力とは胆力、包容力、自立の精神の3つの総和であるといわれています。胆力とは芯の強さを持っていることです。包容力とは他者に対する深いレベルでの優しさや慈しむ心を持っていることです。自立の精神とは自分で立てた信念や規律を遵守する強さを持っていることです。簡単に言い換えれば、強さと優しさと自制心の3つが高いレベルで共存していれば人間力は高くなります。
 次に断らない医療・福祉サービスの提供についてですが、どうすれば断らなくて受け入れることができるのか、そうするためには何が必要かを考えていきたいと思います。そこで大事なことは業務の効率化であると思います。効率化をはかり余裕をもっていることが受け入れるうえで大切です。そして私たちが「断らない」という意識を絶えず持っていることが何よりも必要です。
 
 基本理念を実現していくためには、経営基盤がしっかりしていることが不可欠です。また私たち自身が心も体も健康であることがきわめて大切であります。今年1年間、職員皆が元気で健康に過ごせることを心から願いたいと思います。
 それでは、令和2年が徳島赤十字ひのみね総合療育センターならびに徳島赤十字障がい者支援施設ひのみねにとりまして明るい良い年でありますように、また、このブログを見ていただいている皆様にとりましても明るく素晴らしい年となりますよう心より祈念いたしまして、私からの年頭の挨拶とさせていただきます。 

2019年12月のひとりごと

ジャズトレイン

 ひのみね祭の翌日の日曜日に、ジャズトレインに乗って由岐伊勢エビ祭りに行ってきました。JR徳島駅9時30分発の1両編成の特別列車を牟岐線普通列車の最後尾にくっつけたものです。ジャズの構成はサックス、ギター、ピアノ、パーカッションで、行き帰りそれぞれ有名なジャズナンバー10曲の演奏がありました。狭くて揺れる車内での演奏は大変そうでしたが、さすがプロの演奏という感じで十分に堪能しました。座席指定で参加人数は38名であり、赤ワインとビールが飲み放題という私にはこたえられないものでした。演奏の合間に新幹線などのJRについてのクイズがあり、答えた人にその都度、景品が手渡されました。
 10時50分にJR由岐駅に到着しました。由岐伊勢エビ祭りの会場は由岐駅前のグランドであり、今回が第29回ということでした。到着後さっそく伊勢エビめしと長寿汁の昼食を頂きましたが、伊勢エビが丸ごと一匹入っており、大変美味しく堪能しました。会場では伊勢エビつかみ取り、伊勢エビじゃんけん、伊勢エビビンゴ、伊勢エビセリ、伊勢エビ重量あてクイズ、伊勢エビ福投げなどが次々と行われました。あまりに人が多くて私はほとんどのイベントに参加しませんでした。
 帰りの列車まで時間がたっぷりあったので、海産加工品、干物や総菜の買い物を済ませた後、300mほど離れた所にある由岐漁港の堤防に座って海を見ながらのんびりと過ごしました。それでもまだ時間があったので、JR由岐駅の中にあるコミュニティ施設「ぽっぽマリン」を見学しました。1階には展示水槽、物産品売り場、観光案内所があり、2階には郷土資料館がありました。郷土資料館は由岐の歴史がわかりやすく展示・説明されていました。
 帰りのジャズトレインはJR由岐駅14時54分発で、行きと同じように10曲のジャズが演奏され、クイズと景品ゲットも同じようになされました。帰りの列車は寝ている人も見られましたが、私はノリノリでジャズの演奏を最後まで聴き、16時11分にJR徳島駅に到着しました。ジャズトレインは初めての経験でしたが、私には満足のいくものでありました。 
  

2019年11月のひとりごと

障がい者の虐待防止への対応

 平成24年10月1日に障害者虐待防止法が施行されて7年が経過しました。この法律では、障がい者に対する虐待が尊厳を害するものであり、自立と社会参加にとって虐待を防止することが極めて重要であるとし、家庭、福祉施設、職場での障がい者への虐待の禁止、予防と早期発見、通報の義務、養護者の負担軽減のための措置及び障がい者の権利利益の擁護を謳っています。正式名称は「障害者虐待の防止、障害者の養護者に対する支援等に関する法律」といいます。
 
 虐待問題は虐待者と被虐待者の関係だけにとどまるものでなく、社会全体で共有、解決すべき問題であるという見地から、虐待や虐待と疑われる行為を発見したすべての国民に市町村や都道府県に通報する義務を課しています。また、国と地方公共団体は障がい者虐待の防止、養護者への支援を進める義務を負います。
 
 この法律が虐待を受ける「障害者」として定義しているのは、障害者基本法にある身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む)、その他心身の機能の障害がある者であって、障害及び社会的障壁により、継続的に日常生活または社会生活に相当な制限を受ける状態にある者のことをいいます。手帳を取得していない者、18歳未満の者も含まれます。また「虐待」とは、身体的虐待、性的虐待、心理的虐待、放棄・放任(ネグレクト)、経済的虐待のいずれかに該当する行為のことをいいます。
 
 障害者虐待防止法が施行されてから7年が経過しましたが、障害者虐待事件は後を絶たちません。家庭や福祉施設、職場で虐待を受けた障がい者が平成29年度、計3,544人(前年度比356人増)で過去最多になり、うち1人が死亡していたことが厚生労働省の調査で分かりました。市区町村などへの相談・通報件数も計7,714件(同248件増)で、過去最多となりました。
 
 当施設においては虐待防止委員会を設置し、毎月事例検討を行っています。職員の対応に権利侵害はなかったか、他者が見ても良い支援であるといえるのかを論点に話し合っています。虐待防止においては、「虐待」に目が行きがちですが、問題は彼らの権利が守られているかどうかであると思います。虐待に繋がりうる「芽」を早期に摘むことが虐待を防止することといえます。特に閉鎖された小社会である施設では「マンネリ化」がよい支援を行う上での妨げになります。この「マンネリ化」が「言い訳」そして「プロ意識の欠如」へと繋がります。普段からの権利擁護を意識した行動が、障害のある方々の権利擁護の最後の砦とならなければなりません。
 
 そのためには施設はオープンで地域に浸透し、施設を利用される皆様の場として機能していく必要があります。共生社会の実現のためにも、通報はもちろんのこと、施設への積極的なご意見を頂きたいと思います。そのことがよい支援を行うことの原動力となります。
 
 知的障害福祉の父である糸賀一雄先生が述べられた「この子らを世の光に」のように、障がいのある方々が世を照らす光となり、すべての人が等しく権利を行使して社会参加できる世界の実現を目指していきたいと思います。
  

2019年10月のひとりごと

こどもの心臓病について

 
 私の小児科医としての専門分野の一つに小児循環器学があります。そこで今月のブログでは子どもの心臓病について述べます。子どもの心臓病は、生まれつき異常のある先天性心疾患と出生後のどこかの時点で異常となる後天性心疾患に大きくわけられます。大部分は先天性心疾患であり、その頻度は出生数の約1%もありますが、心室中隔欠損症や動脈管開存症などは自然閉鎖する場合もありますので、ずっと経過をみなければならない疾患の頻度はこれよりも下がります。
 
 先天性心疾患の中で最も多くみられるのが心室中隔欠損症です。これは心室中隔(右心室と左心室を2つに分けている筋肉の壁)に穴が開いている状態で、血液が左心室から右心室に短絡します。穴の開いている場所やその大きさにより病態や症状は異なり、自然閉鎖するものから手術しなければいけないものまで、程度はさまざまです。手術治療が必要のない場合が多く、ほとんどが生活や運動の制限はいりません。
 
 次に頻度の高いのは肺動脈狭窄症です。右心室と肺をつなぐ血管である肺動脈が狭くなっている病気で、これも狭窄の程度が軽度から重度までさまざまです。軽症の場合は無症状であり治療の必要はありませんが、中等症以上の場合はカテーテル治療や手術で狭い弁や血管を拡げることがあります。三番目に多いのが心房中隔欠損症です。これは右心房と左心房の間を仕切る壁に穴が開いているものです。自然閉鎖する率は心室中隔欠損症に比較してかなり低く、手術またはカテーテル治療を行います。
 次に多いのがファロー四徴症で、これはチアノーゼ(唇や爪床が紫色になる)を示す疾患の代表的なものです。ファロー四徴症は肺動脈狭窄(右室流出路狭窄)、心室中隔欠損症、大動脈騎乗と右室肥大を伴います。手術治療が必要で乳児期に低酸素発作をきたすような場合はまず短絡手術を行い、その後に根治手術をします。その他にも先天性心疾患は多くありますが、重症の疾患としては完全大血管転換症、総肺静脈還流異常症、単身室、左心低形成症候群などがあります。これらは私が小児循環器病の診療を始めた昭和50年代は手術成績があまり良くなかったのですが、現在ではかなり改善されています。
 
 後天性心疾患には心筋症、心筋炎、肺高血圧症、感染性心内膜炎、不整脈、川崎病に伴う心疾患などがあります。心筋症には左室心筋が肥大する肥大型心筋症と心室が著名に拡大する拡張型心筋症があります。学校心臓検診で見逃してはならない疾患です。心筋炎は心臓の筋肉に炎症が発生した状態を指し、心不全の原因になります。また致死性不整脈が生じることもあり重症な病気と言えます。感染性心内膜炎の原因は細菌性がほとんどですが、真菌性、ウイルス性のものもあります。ほとんどが心室中隔欠損症などの先天性心疾患がある場合に起こります。
 
 不整脈の種類は多いのですが、上室性期外収縮や心室性期外収縮などの治療や運動制限の必要のないものがほとんどです。発作性上室性頻拍症や心室頻拍症などは治療が必要で、QT延長症候群には失神、突然死などをきたす場合があり注意が必要です。最後に川崎病に伴う心疾患には、冠動脈拡張や冠動脈瘤がありますが後遺症として問題となるのは約3%ぐらいです。
 

2019年9月のひとりごと

夏休み旅行日記

 
 夏休みの旅行は毎年のように台風にたたられるので,今年は7月上旬にしてみた。ところが今年は梅雨入りがかなり遅れたため,梅雨の真っただ中の旅行になってしまった。けれども幸いなことに,4日間の旅行中に傘を必要とすることはなかった。今年の旅行の目的は世界文化遺産・白川郷を訪れることであったので,下呂温泉・飛騨高山・白川郷・山中温泉・東尋坊というコースを組んだ。
 
7月4日(木)曇り
 松茂9:18発の高速バスで新神戸駅まで行き,新神戸11:26発のJR新幹線のぞみ16号で名古屋駅に12:30に到着した。次に名古屋12:48発のJR特急ワイドビューひだ11号に乗り換え,下呂駅に14:22に到着した。下呂駅には旅館の車が迎えに来てくれていた。下呂温泉は有馬・草津と共に日本三名泉と呼ばれている。旅館は下呂市街を望む場所にあり,露天風呂付客室に泊まった。夕食まで時間があったので,旅館の前にある下呂温泉合掌村を見学した後,湯の街を散策した。そこで美濃焼のお皿とビアグラスをお土産に買った。夕食は温泉旅館には珍しい飛騨牛がメインのイタリアンのコースであった。
 
7月5日(金)曇り
 チェックアウトの後,旅館の前にある下呂合掌村の駐車場で朝8:00から開かれる「いでゆ朝市」に出かけ,飛騨高山名物,朴葉味噌(ほうばみそ)などを買った。8:30から観光タクシーに乗り,飛騨高山観光に出かけた。
 高山市は人口9万人足らずで,日本で地震や台風などの災害が最も少ないところだそうだ。江戸時代には幕府の直轄地として栄え,今も当時の街並みが残っている。高山祭屋台会館,桜山八幡宮,宮川朝市,古い町並(下二之町大新町伝統的建造物群保存地区),高山陣屋,飛騨の里などを見て回った。
 高山の宿には15:00過ぎに到着し,温泉に入りくつろいだ。部屋は露天風呂付であり,個室で頂く食事も美味しかったが,マッサージが指定の時間に予約出来ていなくて残念だった。しかし旅館側が大変恐縮して,夕食時の飲み物代4500円をおまけしていただき,その上お土産に菓子折りまで頂いた。
 
7月6日(土)曇りのち晴れ
 高山の宿を8:30に観光タクシーで出発した。東海北陸自動車道を全長10,710mの飛騨トンネル(日本国内第3位の長さ)などいくつもの長いトンネルを抜けて白川郷に着いた。そこから先に白山白川郷ホワイトロード(旧白山スーパー林道)のドライブに出かけた。標高1,450mの三方岩駐車場付近には雪が少し残っていた。雲の合間からは富士山,立山とともに日本三名山の一つである白山(標高2,702m)を展望することが出来た。落差86mのふくべの大滝を眺めた後,白川郷まで引き返した。
 白川郷は合掌造りの民家が点在する世界文化遺産の里で,着いた頃には天気は晴れてきた。まず荻町城跡(おぎまちじょうせき)展望台から萩町全体を一望し,里に降りて行き和田家,長瀬家,神田家などの合掌家屋を見て回った。相変わらず観光客が多く,日差しも強かったが3時間ぐらいかけてゆっくりと歩いた。
 白川郷から東海北陸自動車道と北陸自動車道を経由して,加賀インターを降りて加賀温泉郷にある山中温泉に到着した。山中温泉は松尾芭蕉が愛した温泉で,有馬,草津温泉と共に日本三名湯に指定されている。宿は鶴仙渓が見渡せる展望露天風呂があり,夕食は好きな料理が選べる「アラカルト懐石」であった。
 
7月7日(日)晴れ時々曇り
 8:30に山中温泉を出発し,東尋坊に向かった。途中に北潟湖畔公園を経由し,東尋坊と同じ輝石安山岩で出来た島で柱状節理や板状節理が見られる雄島に立ち寄った。雄島から見た東尋坊は何か小さく見えたが,東尋坊の板状節理の上に立ってみると,足がすくみ,迫力満点であった。東尋坊は輝石安山岩が柱のように約1kmにわたり広がっている奇跡で,朝鮮半島とノルウエーと合わせて世界3ヵ所でしか見られないそうだ。
 次に水運などで古くから栄えた洋館や町屋が連なる港町,三国湊に立ち寄った。旧森田銀行本店,旧岸名家などを見て回り,三国湊座で昼食に三国バーガーを頂いた。そのあと芦原温泉駅まで送ってもらい,JR特急サンダ-バード22号で大阪駅まで戻り高速バスで松茂まで帰ってきた。今年の夏休みの旅行は、天候に恵まれて無事3泊4日の観光を楽しめた。

2019年8月のひとりごと

学校心臓検診

 学校心臓検診は、内科検診時の学校医による聴診で、心雑音や異常心音、脈のみだれ、また視診による身体所見により二次検診対象者を抽出します。そして小学校、中学校、高等学校の1年生全員には心電図検診が行われ、有所見者には二次検診を受診していただいています。この我が国の学校心臓検診システムは世界でも類を見ないシステムです。そこで今回のブログでは学校心電図検診について述べます。
 
 1995年に小学校、中学校、高等学校の各1年生全員に心電図検査が義務付けられて以来、全国的に行われています。徳島県では私が小児科医になった40年以上前から心電図検診は行われていました。心電図検診の流れは、まず各学校で対象者に心電図検査を行います。そして多くの市町村は心電図判読委員会で、小児循環器学会が中心に作成した心電図判定基準に則り二次検診対象者を抽出します。私は毎年、徳島市、小松島市、板野郡の心電図判読委員会に出席しています。
 
 二次検診医療機関は、心エコー検査が行えることを条件に徳島県医師会が指定しています。私も30年以上この心臓二次検診を行っています。二次検診対象者は、学校で検査した心電図と4枚綴りの報告書を持って受診します。病気で受診するときと同じように保険診療となります。医療機関は検診結果(病名・異常なし、生活指導管理区分など)を4枚綴り(本人用、学校用、二次医療機関用、医師会報告用)に記載します。検診結果の実際は医療機関での管理不要がほとんどであり、管理しなければならない場合でも区分“E”(体育はすべて可、運動クラブも可)がほとんどです。しかし、毎年、手術治療を必要とする心房中隔欠損症や厳重に管理・治療の必要な心筋症なども新たに見つかっています。
 
 心電図二次検診受診率は例年ほぼ100%です。これは学校によっては二次検診結果が出るまでは体育や部活を止められている場合もあり、保護者も心電図異常(有所見)があると通知があれば、大変心配するからであると思われます。ところが学校検尿検診や小児肥満の健康管理システムなど他の学校検診の二次検診受診率は非常に低くなっています。学校検尿検診では治療や運動・生活制限の必要な腎疾患が見つかることも少なからずあり、小児肥満では脂肪肝、脂質異常症、糖尿病、高血圧などの合併症が多くみられますので、二次検診対象のすべての児童生徒は必ず受診するようにしていただきたいと思います。

2019年7月のひとりごと

4泊5日の出張日記

6月5日(水)<晴れ時々曇り>
 4泊5日の会議・総会・学会の出張旅行に出かけた。水曜日の早朝はいつものようにテニスの朝練をし、午前中は赤十字病院の外来診療を行った。学校内科検診で心雑音を指摘されたり、心電図検診で異常を指摘された子ども達が多く受診した。午後1時25分JR徳島駅発の特急で宮崎市に向かった。JR岡山駅からJR博多駅までの新幹線の中では日本小児心身医学会中国四国地方会のシンポジウムで発表する原稿の準備をした。福岡空港から宮崎空港まではANAのプロペラ機に久しぶりに搭乗したが、意外と揺れは少なかった。宮崎市のホテルに着いたのは午後8時45分であり自宅を出て8時間を要した。やはり宮崎は徳島から時間的に最も遠い距離にある。
 
6月6日(木)<晴れ一時曇り>
 令和元年度全国肢体不自由児施設 施設長・事務長会議は午後0時30分からの開催であったので、午前中に青島まで出かけた。JRの青島駅行に乗車したが、終点青島駅に降り立ったのは私を含め二人だけだった。しかし青島に行くとやはり中国人観光客が大勢いた。天気がよかったので島と海はとても美しかった。
 会議では参議院議員自見はなこ氏の特別講演が予定されていたが、公務で出席できないためビデオメッセージでのお話であった。小児科医らしい良い講演であった。
 
6月7日(金)<曇り時々雨>
 午前中の全国肢体不自由児施設 施設長・事務長会議が終了後、次の日本小児科医会定時社員総会に出席するために宮崎空港から伊丹空港経由で京都へ向かった。全国的に大雨のため各便で遅れが目立ったが、大阪行きは定刻通りに飛び立った。宿泊は京都駅にあるホテルにしたが、京都駅は外国からの観光客で大変混雑していた。夕食は外に出ると待たされそうなので、ホテルの中の日本料理店でゆっくりと味わった。
 
6月8日(土)<曇り時々晴れ>
 朝早く起きて京都駅から比較的近くにある、三十三間堂、清水寺、東本願寺を散歩して回った。早朝なので観光客はほとんどいなかったが、開門しているのは清水寺だけであった。午前10時から、京都テレサが会場の令和元年度日本小児科医会定時社員総会に出席した。総会は各都道府県小児科医会代議員が参加して開かれるもので、事業報告・決算報告、事業計画・予算の報告などが行われた。後のフォーラムはランチョンセミナーのみ参加した。その後、第27回日本小児心身医学会中国四国地方会参加のため、JR京都駅午後2時24分発の新幹線のぞみで岡山経由し高松まで行った。JR高松駅前のホテルに泊まったが、朝食の美味しい眺めの良いホテルだった。
 
6月9日(日)<晴れ時々曇り>
 日本小児心身医学会中国四国地方会は中国四国地方会の幹事が持ち回りで開催するものであり、今回は四国こどもとおとなの医療センターの牛田美幸先生が担当された。会場はかがわ国際会議場で大変立派なホールであった。テーマは「子どものこころを考える」であり、私は同じテーマのシンポジウムで小児科医の立場から「子どものこころとからだのつながり」について発表した。あがってないつもりであったが、声が震えているのが自分でもわかった。
 長い出張を終え、午後5時10分JR高松駅発の特急で徳島に帰ってきた。毎日、美味しいものをたくさん食べ、ビールとワインをいっぱい飲み、運動不足もあってか体重が1.5kg増えていた。明日からはダイエットをしようと思った。

2019年6月のひとりごと

伊予歩き遍路日記5

<2019年4月27日(土)晴れ時々曇り>
 
 平成最後となる4日間をかけて伊予路の歩き遍路に出かけた。今回はあろうことか携帯電話を家に忘れて出かけてしまった。やむを得ず、連れ合いの携帯電話番号をセンターに伝えて連絡してもらうことにした。最近忘れ物が多くなったのは歳のせいにしてよいのだろうか。いつものように午前7時JR徳島駅発の特急にJR今治駅まで乗り,そこから第54番札所延命寺までタクシーを利用した。
 
第54番札所延命寺
 元は円明寺といい,53番札所と同じ名前だったので明治初期に延命寺に改名されたそうだ。山門は,元は今治城の城門だったらしい。本堂から大師堂へは石段を上っていく。現在の場所に移った時に植樹された名木「つぶらじい」は高さ20m余りに及ぶ。
55番札所南光坊までは3.5kmで,広大な大谷墓園の中を通り抜け,今治市街地を歩き1時間で到着した。
 
第55番札所南光坊
 四国八十八ヵ所で「坊」の名を付しているのは南光坊だけである。再建されているため本堂などの新しい建物が並ぶ。瓦屋根の四隅が跳ね上がっているのが特徴だそうだ。高名な書家・川村驥山(きざん)との出会いを記念して建立された筆塚がある。
 南光坊を出て、JR今治駅からまっすぐに一本道を歩いた。しばらく進むと今治西高等学校があり,大勢の野球部員が練習していた。グランドはスタンド付きの野球場そのもののようで,大変立派なものであった。3km歩き50分で56番札所泰山寺に着いた。
 
56番札所泰山寺
 石垣に包まれて高台にたたずむこの寺は,山門のない寺としても知られている。細長く伸びた境内に一列になって本堂,納経所,宿坊が並ぶ。宿坊の前にある大師堂のそばにあった弘法大師お手植えの不忘松(ふぼうまつ)は一度枯れてしまい切り株が残り,その横に子株として育っていた1株が植えられている。
 泰山寺から57番札所栄福寺までも,3kmであり50分で歩いた。
 
第57番札所栄福寺
 大師堂と本堂は回廊によってつながり,本堂へは石段を上る。本堂前の両脇に仏足石がある。境内の片隅に立つお願い地蔵尊はお願い事を叶えてくれるといわれている。この寺の住職さんはまだ歳がお若くて,「ボクは坊さん」や「空海さんに聞いてみよう」などの著書も多い。
 次の58番札所仙遊寺までは高低差200m,2.5kmを1時間15分かけてゆっくりと上った。途中に犬塚池というのがあった。かつて57番と58番の住職さんは兼ねていたことがあって,寺間の連絡を犬が手伝ってくれていたそうだ。鐘がなる方に犬は走っていたようで,それがある時,同時に鳴ってしまい,困った犬が池に身を投げたという話だった。
 
第58番札所仙遊寺
 「おされさん」の愛称で親しまれている寺。金剛力士像が迎えてくれる山門をくぐり石段を50mほど登った所に弘法大師の加持水(かじすい)といわれる井戸がある。境内の片隅には大師像がたたずみ,その周りには,八十八ヵ所霊場のご本尊の石仏が囲んでいる。宿坊は部屋,精進料理,温泉共に人気があるが私たちはここには泊まらなかった。
 仙遊寺から2.8km下った所の今治市新谷で今日の歩き遍路は終了した。タクシーを呼んで20分間ほど走って,鈍川温泉(にぶがわおんせん)に宿泊した。温泉と料理は良かったが,建物,内装は古くなっており,すたれていかないことを願った。
 
45日目:延命寺から今治市新谷まで15km,26,500歩
 
<2019年4月28日(日)曇り時々晴れ> 
 
明日の天気予報が雨となっていたため,札所参りの順番を入れ替え,今日、60番札所横峰寺に行くことにした。鈍川温泉からタクシーでJR今治駅まで行き,駅のパン屋さんで昼食のパンを買い,特急でJR壬生川駅まで行き,近くの宿泊するターミナルホテルに荷物を預け,タクシーで旧東予市石根まで行った。
そこから標高745mの横峰寺までの8kmを登った。最初は舗装された坂道を延々と歩いた。途中に前回の歩き遍路で立ち寄った山小屋風の喫茶店「てんとう虫」があったが,閉まっていた。閉店ではなく定休日であることを祈った。途中で外国の男性に追い越されたが,向こうから話しかけてこられた。初めて日本にこられたドイツの方で,通しで歩き遍路をされており、年配の私たちが歩き遍路をしていることを褒めていただいた。いろいろ会話をしたかったが,私たちの英語力はすっかりさび付いており残念だった。
舗装された道が終わり,休憩所から山道に入るところで,猿の群れに出くわした。何十匹もいたと思われたが襲ってくることもなく,私たちをじっと眺めていた。そこからは山道を苦労しながら登り,途中で昨日の夕食で出た鯛の釜めしの残りをお握りにしてもらっていたものを谷川の傍の石に座って頂いた。自然の中で食べる握り飯は本当に美味しかった。険しい登り道に苦労しながら,やっと横峰寺に到着した。
 
第60番札所横峰寺
西日本最高峰・石鎚山(1982m)の中腹にある霊場である。四国遍路の三番目の関所寺であり,悪心を持った人はここから先へは進めないと言う。私たちはここも何とかクリアーした。境内は石楠花(しゃくなげ)の名所としても知られ,沢山の石楠花に囲まれていたが,三分咲きという所で一週間早かったことが悔やまれた。
61番札所香園寺までは9.3kmの山道を下るが,これは登りにも増してきつく,私は両膝の外側が痛く,連れ合いはふくらはぎが痛くて,後ろ向きに歩こうかと思ったほどだった。
 
第61番札所香園寺
 用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が創建したと伝えられている。近代的なコンクリートの建物が大聖堂で,ここが本堂と大師堂を兼ねている。この二階には700以上の席が設けられ、座ってお参りすることが可能。境内の一隅にある子安大師像は安産・子育てに関する信仰を集めている。
 納経所で納経を済ませると,次の第62番札所宝寿寺は四国八十八ヵ所霊場会を脱退しており,普通のお寺になっているので,納経・礼拝は香園寺の第二駐車場でおこなっていると言われた。そこで納経・礼拝を済ませ,タクシーを呼んで壬生川のターミナルホテルまで送ってもらった。ホテルのレストランは高校生の団体が予約していたため,隣の中華料理店で夕食をとった。今回はこのホテルで2連泊する予定である。
 
46日目:旧東予市石根から香園寺まで17.3km,38,000歩
 
<2019年4月29日(昭和の日)曇りのち雨>
 
JR壬生川駅から鈍行列車でJR伊予富田駅まで戻り,そこから59番札所国分寺を目指して歩いた。まだ雨は降っておらず,2kmを歩いて国分寺に到着した。
 
第59番札所国分寺
 石門を入って正面に本堂,大師堂,毘沙門天,書院などが並んでいる。境内に入り右手に大師像があり,右手で握手が出来るようになっている。握手をして祈願すると願いが叶うと言われており,思わず手を握り祈願した。何を願ったかは聞かないでください。その横にある薬師の壺は,祈りながら壺をなでると,どんな病気でも治ると言われているが,医療者としてはさすがに違うと思い撫でなかった。
 国分寺を参拝して壬生川に向かい歩き始めた。途中に伊予桜井漆器会館があり,今回はランチョンマットの代わりとなる漆器の板を5枚買って宅配してもらった。前回の歩き遍路の時は,ビアカップとお皿を買ったと記憶している。その後,今治湯ノ浦温泉道の駅で昼食を摂った。しばらく歩いた所で雨が降りだした。雨の中を15kmほど辛抱して歩き,西条市丹波町まで来たところからターミナルホテルまで戻った。
 
47日目:JR伊予富田から西条市丹原まで17km,38,500歩
 
<2019年4月30日(国民の休日)小雨のち曇り>
 
 朝,再び香園寺駐車場までタクシーで送ってもらった。そこから歩きはじめ,62番札所宝寿寺をパスして遍路マークに従って歩いたが,63番札所吉祥寺も過ぎてしまい,800m程後戻りして吉祥寺に到着した。
 
第63番札所吉祥寺
 四国霊場の中で唯一,毘沙門天を本尊としている寺だそうだ。城門を思わせる山門を入ると正面が本堂,大師堂はその左側にある。境内にある穴の開いた奇妙な大石は成就石と呼ばれ,本堂前から目をつぶって願い事を唱えながら近づき,金剛杖の先が穴に通れば,心願が成就すると言われている。けれども私たちは試さなかった。
次の64番札所前神時までは,3.3kmであり霧雨の中を55分かけてゆっくりと歩いた。
 
第64番札所前神時
 参道は杉木立が鬱蒼としているが,桜並木があり春の参詣は格別であろうと思った。参道のつきあたりが大師堂,その右奥に大きな本堂,蔵王大権現の社もある。本堂への参道の途中の石段の右にあるのが御瀧不動尊で,かつては滝打修行が行われていた。ここに一円玉を投げ入れて,くっつくとご利益があると言われている。
 前神寺からJR石鎚山駅まで10分間歩き到着したが,伊予西条行の列車が1時間以上ないため,タクシーを呼んでJR伊予西条駅まで行き,そこからJR徳島駅まで戻ってきた。
 
48日目:香園寺駐車場からJR石鎚山駅まで7km,15,400歩

2019年5月のひとりごと

青春の詩

青春の詩
 サムエル・ウルマンによって書かれた不朽の名詩「青春の詩」は、戦後の日本人に勇気と希望を与え、高度経済成長の原動力の一つになったと言われています。私がこの詩に出会ったのは高年齢になってからでしたので、心を深く打たれました。私のように中高年層に愛好者が多いようですが、「千の風になって」で話題になった作家・作曲家新井満氏の新訳の影響で、最近は若い世代でも愛好者が増えてきているとのことです。以下に宇野収・作山宗久氏の訳詞と新井満氏の自由訳を紹介しますので、若い人も若くない人も味わってみてください。
 
青春
サムエル・ウルマン 宇野収・作山宗久訳
 
青春とは人生のある時期ではなく
心の持ち方をいう。
バラの面差し、くれないの唇、しなやかな手足ではなく
たくましい意思、ゆたかな想像力、もえる情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の新鮮さをいう。
 
青春とは臆病さを退ける勇気
やすきにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき はじめて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、情熱を失えば心はしぼむ。
苦悩、恐怖、失望により気力は地にはい精神は芥(あくた)になる。
 
60歳であろうと16歳であろうと人の胸には
驚異にひかれる心、おさな児のような未知への探求心
人生への興味の歓喜がある。
君にも我にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美、希望、よろこび、勇気、力の
霊感を受ける限り君は若い。
霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ
悲嘆の氷にとざされるとき
20歳だろうと人は老いる。
頭を高く上げ希望の波をとらえるかぎり
80歳であろうと人は青春の中にいる。
 
 
 
 
青春とは
サムエル・ウルマン 新井満 自由訳
 
青春とは 真の 青春とは
若き 肉体のなかに あるのではなく 若き 精神のなかにこそある
薔薇色のほほ 真っ赤な唇 しなやかな身体
そういうものは たいした問題ではない
問題にすべきは つよい精神 ゆたかな想像力 燃え上がる情熱
そういうものが あるか ないか
こんこんと湧き出る 泉のように
あなたの精神は 今日も新鮮だろうか いきいきしているだろうか
臆病な精神の中に 青春はない
大いなる愛のために発揮される 勇気と冒険心のなかにこそ
青春は ある
臆病な二十歳がいる すでにして 老人
勇気ある六十歳がいる 青春のまっただなか
年を重ねただけでは 人は老いない
夢を失ったとき はじめて老いる
歳月は 皮膚にしわを刻むが 情熱を失ったとき 精神は しわだらけになる
苦悩、恐怖、自己嫌悪
それは 精神をしぼませ ごみくずに変えてしまう
誰にとっても大切なもの それは 感動する心
次は何が起こるだろうかと
眼を輝かせる 子供のような好奇心
胸をときめかせ 未知の人生に 挑戦する 喜び
さあ 眼をとじて 想いうかべてみよう
あなたの心のなかにある 無線基地
青空高くそびえ立つ たくさんの 光り輝くアンテナ
アンテナは 受信するだろう 偉大な人々からのメッセージ
崇高な大自然からのメッセージ
世界がどんなに美しく 驚きにみちてるか
生きることが どんなに素晴らしいか
勇気と希望 ほほえみを忘れず いのちのメッセージを受信しつづけるかぎり
あなたはいつまでも 青春
だが、もしあなたの 心のアンテナが 倒れ
雪のように冷たい皮肉と 氷のように頑固な失望に おおわれるならば
たとえ二十歳であったとしても あなたは立派な 老人
あなたの心のアンテナが 今日も青空高くそびえ立ち
いのちのメッセージを受信しつづけるかぎり
たとえ八十歳であったとしても あなたはつねに 青春
青春とは 真の 青春とは
若い 肉体のなかに あるのではなく 若き 精神のなかにこそ ある

2019年4月のひとりごと

伊予歩き遍路日記4

<2019年3月21日(木)晴れ>
 春分の日から3泊4日で春の伊予路歩き遍路に出かけた。JR松山駅から松山市駅まで歩き,そこから伊予鉄バスに乗り,三坂峠を下った所にある丹波という所で下車しスタートした。最近は泊まる宿まで前もって宅急便で荷物を送ることにしているのでリュックの中身が軽くて,軽快に歩き出せた。気温は20度を超えており,少し汗ばむぐらいであったが気持ちよく2.7km歩いて浄瑠璃寺に着いた。
 
第46番札所浄瑠璃寺
 寺の境内には天然記念物の伊吹柏槙(イブキビャクシン)の老木があり,本堂前には仏足石や仏手石,説法石などの利益石がある。大師堂にあるだっこ大師は抱っこが出来る大きさであり,お遍路は抱くことが出来る。境内に入る階段下には「永き日や 衛門三郎 浄瑠璃寺」という正岡子規の句碑がある。納経所で松山銘菓「母恵夢」のお接待を受けた。
 
第47番札所八坂寺
 浄瑠璃寺からわずか1km弱歩いたところに八坂寺がある。八か所の坂道を切り開いて建てたことから八坂寺と名付けたと伝えられる。山門にはカラフルな天井絵があり迎えてくれる。本堂と大師堂の間に閻魔堂が建ち,裏手には「極楽の途」と「地獄の途」がある。それぞれ短いトンネル状になっており,おそるおそる通ってみた。
 八坂寺から徒歩15分の所に文殊院徳盛寺がある。ここは遍路の元祖とされる衛門三郎の菩提寺であり,その傍の田の中には彼の8人の子の墓といわれる八塚がある。そこから1.5km行ったところに,やはり衛門三郎の札始大師堂があり,今日のお遍路はここで終了としタクシーを呼んだ。泊りは八坂寺から近くにある砥部のオーベルジュで,通谷池の畔にある緑に囲まれた静かなところであり,旬の創作料理が大変美味しかった。
 
41日目:松山市久谷町丹波から札始大師堂まで5.5km,1.2000歩
 

<2019年3月22日(金)晴れ時々曇り>
 砥部のオーベルジュからタクシーで衛門三郎の札始大師堂まで送ってもらいそこから歩き始めた。1.8km歩くと西林寺に到着した。
 
第48番札所西林寺
 川の土手から低い位置に寺があることから,罪深い人が境内に入ると無間
地獄(むけんじごく)に落とされるとされ,伊予の関所寺とも呼ばれている。私たちは何とか無事通過することが出来た。仁王門から本堂までは敷石が続き,本堂の横には大師堂,その反対側には持仏堂,閻魔堂や茶室が並ぶ。閻魔堂の前にある孝行竹は家庭円満の御利益があるとされるが,今のところ私たちはお願いをしなかった。太鼓橋のたもとに正岡子規の「秋風や 高井のていれぎ 三津の鯛」の句碑が立つ。
 西林寺から3.1km 先の鷹子町空也谷にある浄土寺に向かった。途中で祖母に連れられた5~6歳の兄弟に飴のお接待を受けた。遍路道沿いに住む子どもたちは,挨拶をしてくれる子が多くて,お接待をすることもしつけられているようだ。
 
第49番札所浄土寺
 静寂な空気に包まれた境内の正面には堂々とした風格をたたえた本堂がある。仁王門にはお遍路さんが奉納した多くの草履が掛けられている。浄土寺は空也上人が滞在したといわれ,本堂には口から小さな仏像が六体出ている空也像(重文)があり,「南無阿弥陀仏」の6文字を意味している。
 
第50番札所繁多寺 
繁多寺までの1.6kmは松山市郊外の住宅街裏道を30分かけて歩いた。繁多寺の境内は広く,背後の鬱蒼とした森を借景に本堂,鐘楼,大師堂,聖天堂などが建ち並ぶ。鐘つき堂に描かれている色鮮やかな天井絵には見とれてしまった。また山門からは松山城を中心とした松山市内が見渡せた。
 
第51番札所石手寺
 石手寺までの2.5kmは車が多い道路もあり,40分かけてゆっくりと歩いた。地方の豪族河野家に男の子が生まれ,握った右手に持っていたのが「衛門三郎再来」の文字が書かれた石だったことが石手寺の由来と言われている。かなり広く大きな寺で,鎌倉時代に造られた大きな仁王門は国宝に指定されている。また本堂,三重塔,鐘楼,護摩堂,五輪塔,訶梨帝母堂(かりていもどう),銅鐘はいずれも国の重要文化財に指定されている。門前には正岡子規の名句「南無大師 石垣の寺よ稲の花 見あぐれば塔の高さよ 秋の空」がある。
 石手寺から900mの距離で,道後温泉の入り口にあるホテルに荷物を預け,太山寺に向かって2時間ほど歩いた。道後温泉街のど真ん中を通り,松山大学の広大なグランドの傍を進み,さらに国道196号線に沿って進み,松山北中学校の辺りまで歩いて本日は終了とした。今回は平地を歩くことがほとんどでありそれほど疲れてはいなかったが,道後温泉での入浴は有難かった。
 
42日目:衛門三郎の札始大師堂から松山北中学校まで18.5km, 32,888歩
 

<2019年3月23日(土)曇り時々晴れ>
 松山北中学校までタクシーで送ってもらい,そこから歩き始めた。30分程で太山寺の一ノ門に着いたが,そこから仁王門,山門,仁王門と上った瀧雲山の中腹に本堂がある。松山観光港とは背中合わせになっている
 
第52番札所太山寺
 立派な本堂は鎌倉時代に建立され愛媛県下で最古の建築物であり,国宝に指定されている。山門の周辺には仏足石や百度石がある。仁王門に向かう石段の前に,石に一文字を書いてお供えする所があり,私は「無」,連れ合いは「幸」と書いて奉納した。
 
第53番札所円明寺
 県道183号線を2.3km歩いて,県道沿いにある円明寺に到着した。市井の賑わいの中にあるお寺で,山門をくぐると適度な広さの境内に,楼門,大師堂,本堂,観音堂が整然と並んでいる。大正13年にアメリカのスタール博士が巡礼中,円明寺の本尊厨子にあった銅板納札を高く評価した。それ以来この寺の納札は有名になったそうだ。山門を入ってすぐ左手に,高さ40cmあまりの石に彫られたマリア像がある。この寺はキリスト教をも黙認していたのかもしれない
 円明寺からは本日,宿泊する浅海(あさなみ)にある宿まで16kmをひたすら歩いた。県道347号線に沿って,和気町(わけまち),堀江町を通り大谷という所まで来た。海沿いに海老餃子のテイクアウトがあり,それとコンビニで買ったおにぎりを瀬戸内の海を眺めながら食べた。
 旧北条市を過ぎ,標高80m程の峠を越え下って行ったところの浅海にある,瀬戸内海に沈む夕日が見える宿に午後4時にたどり着いた。ご夫婦で経営するカフェと1組限定の宿で,「人生の楽園」で放送されたそうだ。丁度夕食の時に海に沈む夕日を見ることが出来,良い思い出になった。
 
43日目:松山北中学校から松山市浅海まで20.5km,38,800歩
 

<2019年3月24日(日)晴れ時々曇り>
 朝8時に浅海の宿を出発した。宿泊費は歩き遍路という事で,一人1,000円まけていただき,ドリップバック入りコーヒーをお土産にとお接待も受けた。国道196号の海岸線を歩き,瓦の町菊間町を通過し,大西町で昼食のためうどん屋さんに入った。近くのJR大西駅まで歩き,そこで今回の歩き遍路を終了した。
 
44日目:浅海の宿からJR大西駅まで15.5km,23,300歩

2019年3月のひとりごと

スポーツのオススメ

 肥満傾向児が増加している原因としては、食生活が豊かになり食糧供給が増加したことはいうまでもありませんが、運動量の減少の占める部分も大きいと思います。肥満治療の原則は食事療法ですが運動療法を取り入れることが極めて重要です。そこで今回のブログでは運動がもたらす利点について考え、肥満治療に関わらず大人も子どもも運動することをオススメしたいと思います。
 運動がもたらす短期効果には、なんといってもエネルギー消費量の増大が挙げられます。これは運動によるエネルギー消費だけではなく、基礎代謝量の増加も期待できます。長期効果としては、運動の繰り返しとしての筋繊維の肥大、内臓脂肪量の減少、血管の弾力性の増加、自律神経活動の活性化をもたらします。そしてなりよりも運動は心理的に良い効果を与えます。
 私自身もこの年齢まで元気で健康に過ごせたのも運動のもたらす効果ではないかと思っています。最近では少し運動量が少なくなりましたが、今も以下に示すような運動を実行しています。
 まず、数年前から毎日朝食後に、6時25分から始まるNHKのテレビ体操(みんなの体操・ラジオ体操)を続けています。10分間だけですので、皆さんにもこれを習慣とされることをオススメします。次に35歳から始めた硬式テニスは、月曜日の夜は小松島市立体育館で午後7時から9時30分まで、土曜日の午後は、菖蒲田池テニスコートで午後1時から4時30分まで毎週行っています。また日の出が早い時期の水曜日の朝には、同じコートで午前6時から7時まで朝練を行っています。テニスはあまり気候に左右されず、相手が1人いれば気軽に1年中楽しめるスポーツですので、是非オススメします。
 ウォーキングは日曜日の夕方に近所の農道で45分間行っています。また休みの日にスーパーなどへ買い物に出かけるときはなるべく遠回りをして歩いて出かけます。年に数回は歩き遍路に出かけてばっちり歩きます。運動量を増やすのは何といっても気軽にできるウォーキングがオススメです。月に2回ほどに減ってしまいましたが、フィットネスクラブにも通っています。5分間走り、5分間歩くのを1時間行い、30分間泳いで、お風呂とサウナに入って終了です。
 スポーツは毎日、らくに楽しみながら続けることが大切です。皆さんも自分に合ったスポーツを見つけ、それを続けて元気に健康に過ごせることをオススメします。

2019年2月のひとりごと

健やか親子21全国大会

 平成30年度健やか親子21全国大会(母子保健家族計画全国大会)が昨年11月7日(水)~9日(金)の日程で三重県津市、三重県総合文化センターであり、一昨年の宮崎大会に引き続き参加してきました。
 健やか親子21は、21世紀の母子保健の主要な取組を提示するビジョンであり、関係者、関係機関・団体が一体となって、その達成に向けて取り組む国民運動計画として、「健康日本21」の一翼を担うものです。 平成27年4月から10年計画で開始する「健やか親子21(第2次)」では、「すべての子どもが健やかに育つ社会」の実現を目指しています。 国民運動計画としての取組の充実に向けて、国民の主体的取組の推進や、関係者、関係機関・団体や企業等との連携・協働、健康格差解消に向けた地方公共団体の取組の強化が期待されています。スタートして3年半が過ぎましたが、国民運動としての盛り上がりはいま一つのようです。私達、母子保健に関わるすべての者はなお一層、取り組みの強化のために努力をしなければならないと思います。
 平成30年度大会テーマは「母から子へ~常若(とこわか)に輝く社会をめざして~」でした。大会初日は母子保健関係者研修会で、「思春期をのりきるための乳幼児期からの子育て」のテーマで昨年に引き続き齊藤万比古先生に講演をしていただきました。その後には、愛育班等組織支援担当者会議がもたれたようです。
 大会2日目は、式典と特別講演がありました。式典は厚生労働大臣代理、三重県知事など6名の方が挨拶をされ、その後、厚生労働大臣表彰と3つの会長表彰がありました。特別講演は「奇跡のすぐそばにいるということ」の演題でりんくう総合医療センター産婦人科部長の荻田和秀先生がされました。荻田先生は漫画・ドラマ「コウノドリ」の主人公のモデルとなった産婦人科医であり、産婦人科の仕事、早産について、新型出生前診断、周産期医療の問題点、オキシトシンなどについて講演していただき、ドラマ「コウノドリ」制作の裏話なども伺いました。しかし、残念ながら私は漫画もドラマも見ていませんでした。
 大会3日目は、「お母さんの心と体、みんなで支えよに!~産前・産後における切れ目のない支援をめざして~」のテーマでシンポジウムがありましたが、津市まで来ているので私は伊勢神宮参拝の方を選択しました。昨年度の宮崎大会もシンポジウムをパスして、日本の初代天皇「神武天皇」を祀る宮崎神社を参拝しましたが、健やか親子21全国大会はどうやら著名な神社の近くで行われるようです。
 伊勢神宮の正式名称は地名を付けない「神宮」といい、天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀る皇大神宮(こうたいじんぐう)と豊受大神(とようけのおおみかみ)を祀る豊受大神宮(とようけだいじんぐう)の二つの正宮があります。一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれます。
 最初に伊勢市駅より徒歩5分にある衣食住の守り神である外宮を参拝しました。朝まだ早かったので参拝客はまだらであり、神域の自然を感じながらゆっくりと巡りました。まず入口のある火除橋(ひよけばし)を渡り、手水舎(てみずしゃ)で参拝の前のお清めをし、外宮神楽殿(げくうかぐらでん)でお守りを授与していただき、前回の遷宮まで御殿が立っていた古殿地(こでんち)、そして正宮豊受大神宮を参拝しました。
 内宮は外宮から車で10分の距離にあります。内宮に着いた頃には雨が降り始め、だんだんと土砂降りになってきました。それでも外宮とは対照的に大勢の参拝客でごった返していました。ほとんどが中国から来た人と修学旅行生でした。大雨と大勢の人のため、神聖な気分になりにくかったのが残念でした。それでも内宮の入り口である宇治橋をスタートし、手水舎・御手洗場(みたらしば)、瀧祭神(たきまつりのかみ)、内宮神楽殿と進み、正宮皇大神宮を参拝しました。
 ついでに内宮の入り口まで続く参道、おはらい町の中ほどにある「おかげ横丁」に立ち寄りました。風情のある街道には、小さな店が建ち並び、伊勢志摩の名産物やお土産を販売していました。赤福などのお土産は買わずに、昼食として「伊勢うどん」を頂きました。うどんといっても出汁に麺が浸かっているものではなく、たまり醤油に魚や昆布の出汁を加えたつゆに麺を絡めて食べるものです。太い麺は外側が柔らかく、中がしっかりもっちりしており美味しく頂きました。
 2年連続で健やか親子21全国大会参加と宮崎神社、伊勢神宮参拝をさせていただきましたが、とても良い経験と良い思い出になりました。
 

2019年1月のひとりごと

謹賀新年

 皆様、新年明けましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 いよいよ平成から新しい年号に移る年が明けました。当施設としても気持ちを新たにして、基本理念であります「利用される皆様と心を通わせ、質の高い医療・福祉サービスを提供し、豊かな生活に向けての支援を行います。」の実現に向けて努力したいと思います。
 この基本理念の実現に向けて、今年は特に二つのキーワードを掲げます。その一つは「心を通わせる」ことと二つ目は「断らない医療・福祉サービス」です。業務が忙しくなると、意識して気持ちにゆとりを持たないと「心を通わせる」ことがおろそかになってしまいます。また一人一人違った特性や障がい、症状のある利用者様と「心を通わせる」ためには、私達職員の人としての豊かさや幅広さ、きめ細かさなどが必要です。職員一同が日々精進したいと思います。
 次に「断らない医療・福祉サービス」についてですが、断るということは、質の高い医療・福祉サービスの提供を放棄してしまうことになります。残念ながら次のような言葉を時に耳にします。「それは時間がないからできません」「人手が足りないのでできません」「今までしていないのでできません」「私に力がないのでできません」などなど。できない理由を述べる前に、どうすればできるか、するためには何が必要かを考えていかなければなりません。それでもすることができない場合は、それを課題としてしっかりと受け止め、今後にリベンジを目指したいと思います。
 基本理念を実現していくためには、経営基盤がしっかりしていることが不可欠です。また私たち自身が心も体も健康であることがきわめて大切であります。今年1年間、職員皆が元気で健康に過ごせることを心から願いたいと思います。
 それでは、新しい年が徳島赤十字ひのみね総合療育センターならびに徳島赤十字障がい者支援施設ひのみねにとりまして明るい良い年でありますように、また、このブログを見ていただいている皆様にとりましても明るく素晴らしい年となりますよう心より祈念いたしまして、私からの年頭の挨拶とさせていただきます。

2018年12月のひとりごと

伊予歩き遍路日記3

<2018年11月2日(金)晴れ>
 半年ぶりに秋の伊予路の歩き遍路を再開した。今回はJR徳島駅5:41発の特急うずしお2号に乗ろうと車で家を出たが,歩き遍路にとって命の次に大事な「四国へんろ地図」を家に忘れていることに気付き取りに引き返したため,特急にはぎりぎり間に合った。
 JR内子駅を10:45にスタートした。内子町の街並みを抜けると小田川沿いの道をひたすら歩いた。道沿いには柿の畑が多くあり,美味しそうに色づいた大きな柿をあちこちの直売所で販売していた。途中,大瀬(おおせ)という所に作家大江健三郎の生家があった。大江健三郎は大瀬の小中学校を卒業し,今でも時々訪れるそうだ。
 今日の宿は砥部町総津という所にある旅館を予約しておいた。落合トンネルまで歩いたところで旅館の女将さんから車で迎えに行きましょうかとの電話があり,少しこころが動いたが,後20分ぐらいで着くという事だったのでお断りした。結局,JR内子駅から6時間かかり旅館にたどり着いた。夕食は12種類の料理がならぶすごいものでビールが進んだ。
 
38日目:内子町から砥部町総津まで22km,37,000歩
 

<2018年11月3日(土)晴れ>
 朝6時に弁当の朝食を頂いて,6:15に旅館を出発した。前日夜に支払いを済ませておいたので,勝手に自由に出かけられるところが便利だった。旅館から1時間の所にある三嶋神社で一休みし,県道42号線をしばらく歩き旧遍路道に入った。急な山道を登り,標高570mの下坂場(しもばんば)峠と標高790mの鴇田(ひわた)峠の二つの峠を越えた。途中で秋祭りに出くわし,そこにいた天狗からお祓いをしてもらった。出発から5時間歩いて第44番札所大宝寺に到着した。かつては第43番札所明石寺から大宝寺までが,88ヵ所中の最難関で81.2kmもあり,いくつもの峠を越えて行かなければならなく2泊3日を要した。
 
第44番札所大宝寺
 大宝寺は久万高原の山の中にあり,杉や檜の大木に囲まれた本堂は青い銅板葺きの屋根で古寺の雰囲気が漂う。境内の片隅には,種田山頭火(たねださんとうか)の句碑があり「朝まいりはわたくし 一人の銀杏ちりしく 山頭火」
の文字が刻まれている。
 
 大宝寺から旧遍路道を上り下りし,峠御堂トンネルの所で県道12号線に出た。高原ゴルフ倶楽部前から再び旧遍路道に入
り,途中,八丁坂経由で岩屋寺に向かうコースは険しそうだったので止めて,古岩屋にある国民宿舎に向かった。国民宿舎の辺りの県道沿いには大きなもみじの木がずっと連なって植えられていた。見事な紅葉に感動し良い時期に訪れたことを喜んだ。国民宿舎にリュックサックを預けて,岩屋寺に向かった。30分程歩くと山門に着いたが,ここから266段のきつい石段を上って本堂にたどり着いた。
 
第45番札所岩屋寺
 本堂は垂直に立った大岩壁の前に建ち,本堂の横のはしごの上には法華仙人堂跡がある。大師堂は本堂から少し離れた高い位置にあり本堂より大きい。弘法大師は木と石の2体の不動明王を刻み,木像を本堂に,石像を山の岩盤の中に封じ込め,山全体を本尊とする寺としたそうだ。
 
 岩屋寺からもう一度もみじの紅葉を眺めながら国民宿舎に引き返した。古岩屋温泉の天然岩風呂でゆったりし,夕食は名物キジ鍋を頂いた。初めてキジ鍋を食べたが美味しかった。
 
39日目:砥部町総津から岩屋寺経由,国民宿舎古岩屋荘まで26km,52,000歩
 

<2018年11月4日(日)晴れ時々曇り>
 国民宿舎を8:00に出発し,県道12号線を久万高原町まで引き返した。途中,久万高原ふるさと旅行村という所で秋のイベントをしていたので,休みがてら少し覗いてみた。夕食の足しに里芋コロッケを買った。11:00時前には久万高原町に到着した。道の駅「天空の郷さんさん」で昼食バイキングを頂いた。初めて食べる昼食バイキングだったが,ヘルシーなものが多くてよかった。12:00久万中学校前発のJR四国バスに乗り,JR松山駅経由で徳島まで帰ってきた。
 
40日目:国民宿舎古岩屋荘から久万高原町まで10km,16,000歩

2018年11月のひとりごと

富士・箱根・伊豆旅行

 遅い夏休みをとり9月27日からの4日間、富士・箱根・伊豆旅行に出かけた。50年前の高校の修学旅行で富士・箱根方面に行ったことがあり、また世界遺産に登録されたこともあり今回の旅行先に選んだ。松茂からの高速バスが15分遅れで出発したため、新幹線ひかり462号がJR西明石駅を出発する1分前に飛び乗った。新幹線の座席の前には「飛び乗りは止めましょう」との注意が書かれていた。高速バスからJRに乗り継ぐ時には十分時間に余裕を持つべきであることを肝に銘じた。
 今回の旅行は贅沢をして観光タクシーで巡ることとした。JR静岡駅には2020年東京オリンピック仕様の次世代タクシーJPN TAXI(ジャパンタクシー)が出迎えてくれた。静岡駅に着くと丁度、雨が上がっており幸先良いスタートとなった。タクシーの運転手さん曰く、8月、9月には富士山が顔を見せることは少なく、静岡に住む運転手さんでも9月にはまだ3度しか見ていないそうだ。雨上がりに晴れれば期待できるようで、白糸の滝に向かって車を走らせている時に、雲の合間から富士山がくっきりと姿を見せた。「あ、富士山が見えた」と叫んだのは運転手さんだった。
 白糸の滝は世界遺産の構成資産に含まれており、絶壁の全面から富士山の雪解け水がその名の通り白い糸のように流れ落ちていた。50年前に見た修学旅行の時の景色が記憶によみがえった。次にドライブウエイ富士スバルラインで標高2305mの富士山五合目を目指した。途中はずっと雲や霧に覆われて何も見えなかったが、五合目に着いた瞬間に雲がなくなり富士山頂を手に取るように見ることが出来た。気温は8℃で吐く息が白く、主に中国からの観光客でごった返していた。一日目の宿は富士山と山中湖を一望するリゾートホテルに泊まった。周りの森の中や山中湖畔にはおびただしい数のテニスコートがあり、全国各地から大学生や高校生がテニス合宿に訪れるそうだ。
 二日目は朝からよく晴れていて、山中湖畔から雄大な富士山を眺めることが出来た。富士北麓の湧水池である忍野八海(おしのはっかい)に行った。富士山の伏流水を水源とする8つの湧水池で世界遺産にも登録されている。水は透明度が高いため底まで見渡せた。次に富士山麓を後にして箱根に向かった。乙女峠を越えると箱根町に入り仙石原のススキ草原に行った。秋の気配が漂う中、遊歩道をゆっくりと歩いた。次に今も火山活動が続く箱根屈指の観光スポット、大涌谷に行った。大勢の人でごった返していたので、1つ食べれば7年寿命が延びると言われる名物の黒卵を買って早めに引き上げた。
 大涌谷から車で10分ほどの所にある芦ノ湖の桃源台港から箱根海賊船に乗り箱根町港までゆっくりと遊覧した。箱根町にある成川美術館で平山郁夫などの名画を見て、館内にあるティーラウンジで芦ノ湖を一望しながら昼食を頂いた。その後、箱根関所跡を見学し、箱根旧街道杉並木を少しだけ歩いた。この時も修学旅行の記憶がよみがえった。お土産に箱根寄木細工の丸盆、お箸、ネクタイピンを買った。車で熱海に向かう途中の大観山からは芦ノ湖と富士山を見ることが出来た。
 熱海に入り來宮神社(きのみやじんじゃ)を参拝した。本堂に向かい左奥に立つ樹齢2000年超の大楠が有名で不老長寿、無病息災の象徴とされる。その後、海を見下ろす丘陵にあるアオカハーブ&ローズガーデンに行ったが、残念ながらバラは見ごろを過ぎていた。二日目の宿は熱海の夜景がきれいに見えるホテルに泊まった。エクセレンシイフロアにある部屋が3つもある豪華なところで、夕食も手が込んでおり大変美味しかった。
 三日目は大型台風25号が近づいており、翌日の新幹線が止まり鳴門大橋も通行止めになることが予想された。残念ではあるが、楽しみにしていた伊豆・三津浜(みとはま)にある海と富士・絶景の美食旅館をキャンセルして新幹線で帰ることにした。JR三島駅13:48発ひかり473号乗車まで伊豆観光をすることとした。
 熱海から東伊豆を城ヶ崎海岸まで南下した。4000年前に大室山が噴火し、流れ出た溶岩が荒々しい岸壁を形作ったそうだ。雨が上がっていたので門脇埼灯台から門脇つり橋まで散歩した。次に大室山に立ち寄った。天然記念物に指定された標高580mの中央に深さ70mの火口跡が残る単性火山でお椀の形をしていた。天候が良くないので登山リフトが動いておらず、山頂には行けなかった。最後に修善寺温泉に寄ってもらい、わさび漬けとお饅頭をお土産に買った。
 2年前の東北旅行に次いで今回も最後の日が台風に見舞われた。宿のキャンセル料は当日キャンセルで100%とのことであったが、後日の請求では70%であった。月曜日の勤務に支障を来さなかったので安かったと思うことにした。

2018年10月のひとりごと

2018年9月のひとりごと

学校の給食指導

 小児の心身症外来をしていると、担任による学校給食の指導により食べ物がのみ込めなくなったり、学校に行けなくなったりする子どもがよく受診します。そこで今回のブログでは給食指導について述べます。
 学校給食法は昭和29年に制定され、教育活動の一環として実施されてきました。そして平成20年1月の中央教育審議会答申「子どもの心身の健康を守り、安全・安心を確保するために学校全体としての取組を進めるための方策について」を受け、平成20年6月に大幅に改正されました。第1条(法律の目的)では、「この法律は、学校給食が児童及び生徒の心身の健全な発達に資するものであり、かつ、児童及び生徒の食に関する正しい理解と適切な判断力を養う上で重要な役割を果たすものであることにかんがみ、学校給食及び学校給食を活用した食に関する指導の実施に関し必要な事項を定め、もって学校給食の普及充実及び学校における食育の推進を図ることを目的とする。」とされ、「学校における食育の推進」が新たに規定されました。つまり、学校給食が児童及び生徒の心身の健全な発達に資するものであり、そのために食育の推進を図ることがうたわれています。
 ところが、担任による学校給食の指導により食べ物がのみ込めなくなったり、学校に行けなくなったりする子どもが少なからずいます。私が治療した摂食障害や不登校になった子どもたちに対する給食指導には次のようなものがありました。
 最もひどいケースは、担任が何でも食べられる子どもにしようとして、口の中に食べ物を押し込み、のどに詰まって苦しい思いをしました。その後、その子は怖くて固形物が飲み込めなくなりました。また別のケースは、小学入学前の子どもに保育所の保育士が厳しく給食指導をしたために、小学校での給食の時間が心配で入学後に登校できにくくなりました。あるケースは、小学校低学年の担任が、クラス全員が完食したら宿題が少なくなるとの指導をしました。もともと食べるのが苦手だったその子は、クラスメイトから全部食べていないことを非難され、それをきっかけに極端に食事摂取量が少なくなり、学校にも行けなくなりました。また、小学中学年の担任が脂肪を摂りすぎたら太るとの指導をしたため、その子は脂肪分だけでなく、食事摂取量全体が極端に少なくなりました。神経性食欲不振症(神経性やせ症)と診断し約3か月間の入院治療を必要としました。
 学校給食法に定める給食指導とは、「給食の準備から片付けまでの一連の指導の中で、正しい手洗い、配膳の方法、食器の並べ方、はしの使い方、食事のマナーなどを習得させる。」とあります。そして給食の時間における食に関する指導の内容は、(1)楽しく会食すること、(2)健康に良い食事のとり方、(3)食事の安全・衛生、(4)食事環境の整備、(5)食事と文化、(6)勤労と感謝、とされています。第一に楽しく会食することが挙げられています。子どもたちの心身の健康のために、学校における給食指導を今一度見直していただきたいと切に願います。
 

2018年8月のひとりごと

熱中症について

 
 今年の夏は例年以上に猛暑日が続き、熱中症で救急搬送されたり、お亡くなりになる人が増えています。西日本豪雨災害で避難されている方やボランティア活動に駆け付けた方も熱中症に悩まされています。平成27年、28年のデータでは熱中症で亡くなった人の約80%が65歳以上の高齢者でした。また、子どもは体質上、熱中症になりやすいので特に注意が必要です。
 熱中症とは、熱い環境や体温が下がりにくい状況で起こる、体の異常のことをいいます。以前は夏の暑さや炎天下で具合が悪くなったり倒れたりすることを日射病と呼んでいました。また、医学的には、その重症度により熱疲労、熱けいれん、熱射病などと呼ばれていました。しかし、現在では夜間などの、必ずしも日が照り付ける灼熱のような環境でなくても発症する恐れがあることから、一括りにして「熱中症」と呼ばれています。
 熱中症の原因は、体温が上昇して体温調節機能のバランスが崩れ、体内に熱が溜まってしまうことです。体温が上昇すると体は適度な体温を維持するために、汗をかいたり皮膚温度を上昇させたりして熱を体外に放出します。この機能が損なわれたことにより熱中症が発症します。子どもが熱中症になりやすい理由には、以下の6つがあげられます。①大人に比べて熱を体内で作りやすい。②暑い環境にいると、熱を吸収しやすい。③からだが小さいので、血液の量が大人よりも少なく、手足まで広がっていきづらい。④汗腺が未発達で、体温調節がうまくできない。⑤のどが渇いても自分から水分補給がしたいと申告しにくい。⑥大人と比べて暑さに順応することに時間がかかる。
 子どもの熱中症対策として以下のものがありますので、参考にしてください。①水分補給:脱水症状の予防はもっとも重要な熱中症対策です。こまめな水分補給を忘れないようにしてください。子どもは夢中になると、水分補給を忘れてしまいがちです。保護者の方や周囲の大人がしっかりと気にかけ、こまめに水分補給させるようにしてください。水分は可能ならば、塩分を含んだスポーツドリンクや市販の経口補水液がお勧めです。②直射日光を避ける:直射日光は子どもの熱中症の大きな原因のひとつです。子どもに帽子をかぶらせ、頭部に日光が直接あたることを避けることが重要です。子どもはすぐに帽子を脱いでしまうことが多いので、こまめにチェックして帽子をきちんとかぶらせることが重要です。③風通しの良い服装をする:熱が体内にこもることが熱中症のそもそもの原因です。風通しのよい服を着せ、なるべく体温調節が効くようにすることが大切です。④エアコンを使用する:暑い日にはエアコンの使用を避ける必要はありません。また、エアコンを使用している際にはエアコンの風が直接当たることは避けるようにしてください。学校におけるエアコンの設置状況には市町村によりかなり差があります。全ての保育所・幼稚園・認定こども園・学校にエアコンが設置されることを切に願っています。
 子どもの熱中症の症状(サイン)には、頭痛を訴える、嘔吐した、吐き気を訴える、熱が出ている、寒気を訴える、いつもより元気がない、しんどそうにしている、ふらふらしている、目がまわると言う、からだの痛みを訴える、鼻血、手足のしびれ、また腹痛や下痢の症状が出ることもあります。さらに重度の熱中症の場合は、意識がない、けいれんしているなどの誰がみても明らかな異常を示します。7月に校外活動の後に熱中症で亡くなった小学生がいましたが、疲れたと訴え、元気がなかった時点で対応すれば大事に至らなかった可能性があり、とても悔やまれます。
 子どもの熱中症対策を参考にして大人も熱中症に注意して残りの夏を乗り切りましょう。
 

2018年7月のひとりごと

ネクタイの話

 
 現在のネクタイの原型ができたのは17世紀頃とされ、まだ300年ちょっとしか経っていません。ネクタイの起源として伝わる有名な説として、ルイ13世を守るためにクロアチアの兵士がフランスを訪れた際、彼らが首に巻いていたスカーフが起源である、というものがあります。
 私がネクタイを締めるようになったのは医学生の時、ポリクリ(臨床実習)で各科を回り患者さんと接するようになり、教授に言われた時からです。ネクタイを締めていれば少しは医者らしく見えるためにそう言われたのでしょう。
 ネクタイを締める習慣はその後、小児科医になってからもずっと続き、42年間、診療や学会、会議の場でネクタイを外したことはほとんどありません。最近クールビズとやらで、時にノーネクタイを指示される会議がありますが、首のあたりが寂しくて非常に戸惑います。
 私のネクタイの結び方はウインザーノットという結び目が正三角形に近く、かなり大きくなるものです。顔が大きく肥満気味であった当時の私の体格にバランスが取れるのでこの結び方にしました。この結び方の欠点は、長さの長いネクタイでないとお腹の下まで届かなくなり、お腹が見えてだらしなくなることです。それ以外の結び方は、スタンダードな結び目のプレーンノットや正三角形に近いセミ・ウインザーノット、プレーンノットより少し厚みの出るダブルノットなどがあります。
 最近ネクタイを締める人はめっきり少なくなりました。さらにネクタイピンで止めている人はほとんど見かけません。私は必ずネクタイをネクタイピンで止めています。それもタイタック式という、ピンタイプのものです。タイピンの種類はその他には、ワニ口式、クリップ式、ショートクリップ、スチック・ピンなどがあります。
 私が旅行や学会に出かけた時の楽しみは、ネクタイやネクタイピンを見て回ることです。現地の織物で作ったネクタイや石や宝石で作ったタイピンを見つけた時はうれしくなってつい買ってしまいます。おそらくこれからも仕事中は、ネクタイを外すことはないだろうと思っています。

2018年6月のひとりごと

伊予歩き遍路日記2

 しばらくぶりに伊予路(菩薩の道場)の歩き遍路に出かけた。今回はJR宇和島駅からJR内子駅までを3泊4日かけてゆっくりと歩いた。
 

<2018年4月28日(土)晴れ時々曇り>
 13:00にJR宇和島駅から歩き始めた。天気も良く,気温も丁度良くて,気持ち良く第41番龍光寺までの10kmを2時間半かけて歩いた。
第41番札所龍光寺
 三間(みま)盆地を見下ろす標高190mの山の中腹にある。仁王門はなく石の鳥居が山門になっている。その先に長い参道が伸び,石段を上っていくと赤い鳥居が立つ。左手に本堂があり,右手に大師堂がある。赤い鳥居は稲荷神社のもので,それは本堂と大師堂より高い位置にある。地元の人には龍光寺というより「三間のお稲荷さん」として親しまれている。
 参拝を終え,まだ16:00前だったので龍光寺から30分ほど歩いて成妙(なるたえ)小学校まで進んだ。ここにタクシーを呼んで,本日宿泊する宇和島にあるシティーホテルまで送ってもらった。シティーホテルは宇和島真珠会館の2階にあり、食事は隣にあるハイウエイレストランで頂いた。鯛のかぶと煮が美味しかった。食事の後で女将さんから伊予晩柑のお接待を受けた。

歩き遍路34日目:JR宇和島駅から三間町まで11km,  20,500歩
 

<2018年4月29日(昭和の日)晴れ>
 朝は気温が9度であり肌寒く,部屋に暖房を入れた。しかし予報では昼間に気温は26度まで上がるようだ。朝8:30に昨日歩き終えた成妙小学校を出発した。30分歩くと第42番札所仏木寺に到着した。
第42番札所仏木寺
 本尊が大日如来であることから,地元の人から「大日さま」と親しまれている。山門をくぐり石段を少し上がると,正面に鐘楼と納経所があり,左手の石段を上った一番奥に本堂と大師堂が並ぶ。鐘楼は四国霊場で唯一の茅葺屋根であり,風情を漂わせている。
 9:15に仏木寺を出発し,10.5km先の第43番札所明石寺に向かった。途中で標高480mの歯長峠を越えたが,結構きつかった。明石寺の少し手前の山道に「お遍路に昨日も今日も南風」と詠んだ漱石の句碑が立っており,歩き遍路の私たちには力を頂いた。14:15に明石寺に到着した。
第43番札所明石寺
 標高300mの高さにある明石寺の境内は杉や松の老木をはじめ自然林が生い茂り,荘厳な雰囲気に包まれていた。石段を上り仁王門をくぐり,さらに石段を上った正面に本堂がある。右手に大師堂があり,すぐそばに「夫婦杉」と呼ばれる杉の巨木がそびえていた。現在の寺名は「めいせきじ」であるが,もともとは「あげいしじ」と呼ばれていたそうだ。
 明石寺から山を下ってきた所にある卯之町(うのまち)に出た。江戸中期から昭和初期の商家が立ち並び、白壁、うだつ、半蔀(はじとみ)、出格子など伝統的な建築様式が残る町並みが続いていた。今日宿泊するホテルのチェックインまでに大分時間があったので,街並みの中にある良い雰囲気の喫茶店で一休みした。

歩き遍路35日目:三間町から卯之町まで25km, 31,700歩
 

<2018年4月30日(振替休日)曇りのち雨のち晴れ>
 7:30にホテルを出発した。曇り空で丁度良い気温であり快適に歩き始めたが,鳥坂峠に入る手前で,思いがけなく雨が降り出した。だんだん雨足が強くなり雨合羽を着る羽目となった。幸い鳥坂峠にさしかかるところで雨が止み,一転して晴れてきた。標高470mの鳥坂峠は高くて長い峠であり,汗をかきながらがんばって超えた。峠を下る途中に野生のワラビが生えていたのでワラビ狩りをし,それをお土産に持って帰った。下りで一台の車とすれ違い,わざわざ止まってくれてカロリーメイトのお接待を受けた。お遍路にとってお接待は断ってはいけないことになっている。
 大洲市に入ったところで,歩き遍路をしているイタリア人の男性に,地図を見せられ宿泊場所を尋ねられたが,その場所は私たちにもわからなかった。大洲市を流れる肱川の橋を渡る際,右手に山頂がつつじで染まった冨士山,左手に大洲城の見事な景観に出会った。肱川橋から4kmほど行ったところに,十夜ヶ橋(とよがはし)があった。宿を断られた弘法大師がこの橋の下で野宿をしたといわれている。橋げたの下には大師像が横にされて布団が掛けられていた。遍路はこの橋の上では金剛杖を突かないことになっているが,今では遍路道にあるすべての橋の上で金剛杖を突いていない。
 十夜ヶ橋から1kmほど歩いて大洲市新谷(にいや)まで来たところで,まだ15:30ではあるが今日の歩き遍路を終えた。タクシーを呼んで,本日宿泊する内子にあるオーベルジュまで送ってもらった。歩き遍路の最後の宿は少し贅沢をした。オーベルジュは内子町を見下ろせる小高い丘の上にあり,全部で5棟のヴィラしかなく,テレビや時計がなくてゆったりと過ごせた。夕食は和ろうそくの光の中で頂くフレンチで,大変美味しかった。

歩き遍路36日目:卯之町から大洲市新谷町まで25km, 40,700歩
 

<2018年5月1日(火)晴れ>
 8:00オーベルジュをタクシーで出発し,新谷郵便局前まで送ってもらった。近くに新谷小学校があり,ここは漫画家,松本零士が小学1年、2年を過ごした小学校で、玄関ホールに松本零士の「ふるさとからの旅立ち」という壁画が飾られているそうだ。町には銀河鉄道999通りなどがあった。8:30に歩きはじめ,10:00には内子町に着いた。JRの特急までに大分時間があったので,内子座に寄った。内子座は国の重要文化財に指定されている歌舞伎劇場であり,回り舞台,花道,枡席,奈落などを見学した。その後、JR内子駅11:40分発,特急宇和海12号で帰途に就いた。

歩き遍路37日目:大洲市新谷町から内子町まで8km, 12,000歩

2018年5月のひとりごと

私の研修医時代

 私は1976(昭和51)年に徳島大学医学部を卒業し小児科学教室に入局しました。この年は私を含め8名が小児科に入局しましたが、当時は1つ上と1つ下の学年も同じぐらいの人数の入局があり、小児科医の数がどんどん増えていった時代でした。なぜ小児科を選んだかについてよく聞かれましたが、明確な理由は自分でも解らず実際は「なんとなく小児科医になった」のでした。しかしそうは答えづらくて、「小児科の宮尾益英教授の人柄に惹かれて」とか「サークル活動で学生ボランティアに入り、子どもと関わってきたから」などと言ってきました。
 当時は研修医という言い方はせずに、ジュニアレジデントと呼ばれていました。そして入局1年目は大学病院で研修を受けました。その頃の小児科学教室は、国内留学から帰ってきた専門グループのチーフを中心にどのグループも活発に研究・診療に取り組んでいました。私は後に小児循環器グループに属することになりましたが、その選択には受け持った子どもの臨床経験の影響が大きかったようです。
 小児科医になって初めて受け持った子どもさんが、無脾症候群で複雑心奇形を伴ったHくんであり、乳児期に亡くなられました。病棟のベテランナースが「H君も先生もよう頑張った。よう頑張った。」と繰り返すものでしたから、少し涙が出てしまいました。もう一人の忘れられない子どもさんは、周産期から頻拍発作を繰り返し心臓腫瘍が疑われた、東京からの里帰り分娩で生まれた新生児でした。東京女子医大学心臓血圧研究所に転院することになり、無謀にも主治医である1年目の私が付き添うことになりました。へパリンロックで血管確保して飛行機に搭乗し、羽田空港では飛行機に救急車を横付けしていただき東京女子医大まで搬送しました。当時、日本の小児循環器では第一人者である高尾篤良教授が待ち構えて下さり、持参の心電図を大変緊張しながら説明しました。
 2年目は全員が関連病院に出向き研修することになっていましたが、オーベンのいない一人医長の病院が含まれていたため、くじ引きで出向先を決めることになりました。いつも当たりくじを引く私は案の定、一人勤務である国立松山病院(現在の四国がんセンター)を引いてしまいました。未だ愛媛大学医学部付属病院も開院していなく、関連病院もない松山の地へ、涙を流しながら桜三里を超えて行ったことを記憶しています。堀之内という城壁の中の良い環境にある病院で1年間、がむしゃらに診療しましたが、一人で診療を完結することが経験できたことは役に立ったのではないかと思います。
 3年目からはシニアレジデントと呼ばれ、再び大学病院で勤務することになりましたが、4年目になってまもなくの頃、急に高知赤十字病院の部長が開業することになりました。4年目になったシニアレジデントの私たちの誰かが出向くことになり、もちろんくじ引きとなり、もちろん私が当たりくじ引いてしまいました。今度は2年目の研修医と私の2人で泣きながら高知の地に出向きました。私はまだ4年目でしたが、当時の院長に副部長心得という精いっぱいの肩書を付けていただき、小児科の責任者として1年間がむしゃらに診療しました。高知は美味しい食べ物やお酒に恵まれていましたので、大変救われました。また四国八十八ヵ所を巡礼するきっかけもこの時、高知の地で出来ました。
 小児科医になり早、42年が過ぎた現在では子どもの心臓だけではなく、子どもの心の診療の方にも力を注ぎ、汗と涙を流しています。
 

2018年4月のひとりごと

子どもの肥満について

 先月のブログで、子どもの頃からの生活習慣病予防には、子どもの肥満の予防や治療が極めて大切であることを述べました。そこで今月は子どもの肥満について述べます。
 子どもの肥満は昭和45年(1970年)頃から30年間で2~3倍に増加し、小中学生の10%以上が肥満傾向となりました。そして平成13年(2001年)頃からは横ばいから少し減少傾向になっています。徳島県の肥満傾向児の割合は東北・北海道とともに全国でも多く、西日本では最も多い県となっています。
 肥満の概念は、エネルギー摂取量(食べたカロリー)のわりにエネルギー消費量(使ったカロリー)が少なくて、体内に過剰な脂肪組織の蓄積をみる状態であり、過体重ではありません。しかし子どもで体脂肪率を正確に測定することは難しいので、肥満の判定には肥満度を用います。肥満度は実測体重から標準体重を引いて標準体重で割ったパーセントで求め、20%以上30%未満が軽度肥満、30%以上50%未満が中等度肥満、50%以上が高度肥満に分類されます。高度肥満は子どもでも合併症が多いので医療機関での検査と治療が必要です。合併症のある肥満傾向の子どもは小児肥満症と呼び、病気(疾患)としてとらえられます。
 肥満の合併症の一つに脂肪肝があります。脂肪肝は余分なエネルギーが中性脂肪となり肝臓に蓄積している状態で、肥満の二次検診を受診する子どもの半数以上に見られます。総コレステロールや中性脂肪の高値、HDL-コレステロールの低値などの高脂血症、高尿酸血症、高血圧、糖尿病などの合併症も見られます。睡眠時無呼吸症候群や皮膚の異常(黒色表皮症や皮膚線条など)も問題になります。
 子どもの肥満の対策と治療の留意点としては、①予防と早期発見が大切であり、肥満しかけた時に対策を講じる。②学校保健でも肥満の健康に及ぼす影響について教える。③家族ぐるみで取り組むことを勧める。④子どもを非難せずにやる気にさせる。⑤食事・運動・生活習慣などにそれぞれ出来そうな目標を決める。⑥治療が成長・発達を妨げないこと。⑦指導・治療が新たなストレスとならないように注意する。⑧高度肥満は合併症も多く、病院での管理が必要。などが挙げられます。
 徳島県では全国に先駆けて子どもの肥満対策に取り組んできました。その一つが2003年度から始まった県医師会と県教育委員会による「小児肥満の健康管理システム」です。これは県内全ての小中学校、高等学校、公立幼稚園が対象であり、学校や幼稚園の検診で、高度肥満と判定された子どもたちと軽度・中等度肥満でも保護者が希望される場合に、学校から医療機関での二次検診を受けることをお勧めするものです。毎年、二次検診を受ける子どもの約7割に脂肪肝や高脂血症などのなんらかの合併症が既に見られていますので、その対策と治療が急がれます。 

2018年3月のひとりごと

2018年2月のひとりごと

日本赤十字社徳島県支部創立130周年記念赤十字大会

 昨年12月6日に日本赤十字社徳島県支部創立130周年記念赤十字大会があわぎんホール(徳島県郷土文化会館)であり当施設からも多くの職員がいろいろな役割で参加しました。
 当施設は平成18年4月1日に徳島県から日本赤十字社徳島県支部が経営委譲を受け開設し、徳島県立ひのみね整肢医療センターから徳島赤十字ひのみね総合療育センターに改称しました。したがって日本赤十字社の施設になってから10年が経過したところですが、日本赤十字社徳島県支部は明治20年10月28日に全国で初めて設立された6支部の1つとして誕生し、130周年を迎えました。
 記念事業の一環として昨年4月22日(土)~6月11日(日)に、今に生きる「人道博愛の心」-美術に見る日本赤十字社の歩み-と題して赤十字美術展が徳島県立近代美術館で開催されました。この美術展は、日本画壇の巨匠達から日本赤十字社に寄せられた素晴らしい名画、赤十字の人道活動を自身の筆で未来へ語り継ぎたいとの思いを込めて描いた秀作、赤十字活動の歴史的資料等を一堂に会した記念展でした。私も2回見学しましたが、大変感銘を受けました。特にチケットやパンフレットの表紙にもなった、東郷青児の「ナース像」(1974年、油彩、日本赤十字社蔵)には引き込まれるものがありました。
 徳島県支部創立130周年記念赤十字大会は日本赤十字社名誉副総裁寛仁親王妃信子殿下ご臨席のもと開催されました。式典は日本赤十字社徳島県支部長の飯泉嘉門知事による式辞、有功賞授与、社長感謝状贈呈、支部長特別表彰贈呈と進み、寛仁親王妃信子殿下のおことばを戴きました。その後、日本赤十字社・大塚義治副社長の挨拶、木南征美徳島県議会議長の来賓祝辞と続きました。最後に体験発表として勝浦赤十字奉仕団が「奉仕団は地域の元気本舗?」と題して行われ、盛大な拍手が送られました。次に三代目桂春蝶による落語に伝えたい想い「約束の海~エルトゥールル号物語~」と題した記念講演がありました。
 夕方に日本赤十字社名誉副総裁寛仁親王妃信子殿下御来県記念支部長招待晩餐会が開かれ、支部管下施設長らとともに私も出席いたしました。大変緊張しましたが、御料理は美味しく、後でお聞きしたお話では、信子殿下は阿波尾鳥のそば米汁が大変美味しかったと言われたということでした。
 麻生太郎副総理の妹であられる信子殿下はとても気さくにお話ししていただきましたが、飯泉嘉門支部長と遠藤彰良副支部長のお二人とのお話がはずみ、私はあまりお話に参加できませんでした。一つだけ私からは、信子殿下が医療機関スタッフのメンタルヘルスについてご心配していただいていましたので、赤十字病院や当施設の臨床心理士による職員に対してのメンタルヘルス活動についてご説明させていただきました。
 翌日信子殿下は、11月に竣工式を終えた徳島赤十字病院・西棟をご視察になり東京にお帰りになりました。
 

2018年1月のひとりごと

年頭のごあいさつ

 皆様、新年あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になり、ありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 いよいよ平成30年がスタートし、平成の時代も残すところ1年余りになりました。次の年号に向けて、当施設としては優秀で良好な状態で移行できるような1年間になるように努力したいと思います。
 職員の努力により経営状態も安定し、新しい年を迎えることができました。また、障がい者支援施設ひのみねの2階への移転工事も順調に進み、3月末には完成する予定であります。このことにより、利用児者様や職員の夜間における不安を一掃し、安全を確保することが出来ます。
 私どもの医療や福祉の仕事は24時間、365日、途切れることのない連続したものでありますが、年の初めにあたり改めて、当施設の基本理念であります「利用される皆様と心を通わせ、質の高い医療・福祉サービスを提供し、豊かな生活に向けての支援を行います。」を確認し、皆で誓いたいと思います。
 良い仕事をしていくためには、私たち自身が心も体もともに健康であることがきわめて大切であります。今年1年間、元気で健康に過ごせることを心から願いたいと思います。
 それでは、新しい年が徳島赤十字ひのみね総合療育センターならびに徳島赤十字障がい者支援施設ひのみねにとりましてよい年でありますように、また、このブログを見ていただいている皆様にとりましても素晴しい年でありますよう心より祈念いたしまして、私からの年頭の挨拶とさせて頂きます。

2017年12月のひとりごと

健やか親子21

 平成29年度健やか親子21全国大会(母子保健家族計画全国大会)が10/25(水)~27(金)の日程で宮崎市のメディキット県民文化センターであり、参加してきました。13時30分にJR徳島駅を出発しJR岡山駅、JR博多駅、福岡空港を経由して宮崎市内のホテルに着いたのは20時をまわっていました。宮崎市は徳島から最も時間的に遠い都市の一つであるかもしれません。
 この大会には初めて参加しました。内容は初日が母子保健関係者研修会で、「子どものパーソナリティ発達と環境」のテーマで、今は愛育相談所所長をしておられる有名な小児精神科医師の齊藤万比古先生に講演をしていただきました。その後には、愛育班等組織支援担当者会議がもたれたようです。
 翌日は1時間半に亘って式典が行われました。その内容は挨拶が厚生労働大臣、宮崎県知事、宮崎市長のそれぞれ代理の母子愛育会会長、日本家族計画協会会長,母子保健推進会議会長と延々と続きました。その後の表彰式も厚生労働大臣表彰、母子愛育会会長表彰、日本家族計画協会会長表彰、母子保健推進会議会長表彰、来賓祝辞、受賞者謝辞とさらに長々と続きました。
 受賞していただいた私が言うのも変なことですが、何か時間と費用の無駄使いのような気がしました。その後に特別講演「すべての親子にハピネスを~私たちがすべきこと~」が福島文二郎氏(JSパートナー代表取締役)によりなされました。夕方には母子保健推進員等及び母子保健関係者全国集会があったようです。
 3日目はシンポジウム、テーマ「思春期からの生涯を通じた女性の健康支援~健やかな妊娠・出産のために~」や家族計画研修会ランチョンセミナー「居場所のない女の子たち~今、私たちがすべきことは何か~」がありましたが、これらをパスして近くの宮崎神社と宮崎県総合博物館を観に行きました。
 宮崎神社は日本の初代天皇「神武天皇」を祀る神社であり、鳥居をくぐると、まっすぐな長い参道の奥に直線的なつくりの拝殿,社殿が一直線上に配置されている厳かであり美しい境内でした。折しも翌日から開かれる宮崎神宮御神幸祭(神武さま)の準備があちこちでなされていました。宮崎県総合博物館は入場料無料であり、46億年の地球の歴史と宮崎の自然の素晴らしさを知ることが出来ました。
 最後に健やか親子21について少し説明します。「健やか親子21」は、21世紀の母子保健の主要な取組を提示するビジョンであり、関係者、関係機関・団体が一体となって、その達成に向けて取り組む国民運動計画として、「健康日本21」の一翼を担うものです。 平成27年4月から10年計画で開始する「健やか親子21(第2次)」では、「すべての子どもが健やかに育つ社会」の実現を目指しています。 国民運動計画としての取組の充実に向けて、国民の主体的取組の推進や、関係者、関係機関・団体や企業等との連携・協働、健康格差解消に向けた地方公共団体の取組の強化が期待されています。スタートして早2年半が過ぎましたが、国民運動としての盛り上がりはいま一つのようです。私達、母子保健に関わるすべての者はなお一層、取り組みの強化のために努力をしなければならないと思います。

2017年11月のひとりごと

学生ボランティア

 私は1970(昭和45)年に徳島大学に入学しました。大学の6年間は準硬式野球部(医学部)と学生ボランティア部(全学部)の2つのクラブ活動をかなり熱心に行い、何度かの留年の危機を乗り越え1976(昭和51)年に卒業しました。今回のブログではボランティア活動について述べます。
 大学入学当時はボランティアという言葉は全く知りませんでした。小学校の同級生で工学部に1年先に入学していた友達に強力に勧誘され、何もわからないままに入部しました。学生ボランティアの主な活動は、近くにある児童養護施設を訪問することでした。毎週金曜日の夕方に訪問し、子どもたちと遊んだり学習指導を行ったりしました。夏休みには、子どもたちを連れて北の脇海水浴場に一泊二日のキャンプに出掛けるのも恒例の行事でした。お正月には、施設で過ごさなければならない子どもたちを連れて外出をすることもありました。6年間も子どもたちと関わったので、彼らが18歳を過ぎて養護施設を出て行った後も、会ったり、年賀状をもらったりしました。彼らに子どもが出来て、その子が病気になった時に私の外来に連れて来てくれることもありました。
 当時「ボランティア活動とは何か」について、よく考えたり議論したりしていました。「単なる奉仕活動に終わってはいけない」「相手のためだけではなく、自分自身の成長を目指すものでなければならない」「福祉体制の不備を補完するだけではいけない」「児童養護施設の持つ問題点を解決するために、ボランティアの立場で働き掛けていかなければならない」など、今から思えばずいぶんと頭でっかちであり、恥ずかしい思いですがその頃はわりあい真剣でした。
 今日ではボランティアという言葉は全く普通に使われていますが、48年前は、学生ボランティアでサークル活動をしていると言うと「ボランティアって何」とよく聞かれました。あまりきちんと答えられずに「篤志家という意味で、自分自身の成長のために自主的に人のお役に立つことをする活動です。」などと説明していました。今、手元にある広辞林(第六版、三省堂)でボランティアを引くと、「篤志奉仕家。自分の意志によって自発的に身体障害者・老人・孤児の収容施設などで奉仕活動をする人」とありますが、ひどい説明であると思います。今度、第七版の改訂が出るようですが、新語を増やすのも良いけれど、一つ一つの言葉の意味をもっと正確に記載してほしいと思います。
 あと、最近よく耳にする「有償ボランティア」という言葉には、大変違和感を覚えます。今、現在「ボランティア活動とは」についてもう一度考えてみたいと思います。

2017年10月のひとりごと

子どもとメディア

 テレビの普及から始まって、ビデオ、テレビゲーム、パソコン、携帯電話、スマートホンなど私たちを取り巻く電子機器の環境は次々と大きく変化しました。このような環境の中で、子どもたちの生活習慣は大きく影響され、心身の発達への影響も大変懸念される状況になってきています。電子メディアへの接触はだんだんと低年齢化し、乳幼児期にスマホやタブレットなどを見せられています。また小中学生の電子メディア接触時間は長時間となり、生活リズムが乱れ、睡眠不足傾向になっています。2012年の厚労省研究班の調査ではネット依存症が強く疑われる中高生は52万人との推計が出ました。それから5年が経過した現在ではこれを大きく上回っていると推測されます。
 電子メディアの子どもへの悪影響は様々であり、多岐にわたっています。まず、長時間の視聴は運動不足を助長し肥満や体力不足を招きます。また睡眠時間を減少・不規則にし、睡眠の質を悪くします。スマホのブルーライトはメラトニン分泌を抑制し体内時計の乱れを引き起こすとも言われています。脳への影響としては、長時間使用により記憶や判断を司る部分の脳の発達に遅れが出ます。また考える時間が奪われることにより思考力全体が低下する懸念があります。さらに長時間視聴と学業成績低下の関連性のデーターも出されています。依存の問題は、ゲームなどの報酬系の依存に加えて、SNSへの繋がり依存があります。ネット上でのいじめは、悪質かつ深刻であり世界中で問題になっています。メディア付けの問題は、時間が奪われることと視聴内容から影響を受けることに集約されますが、特に子どもの場合は心身の成長や発達に大切な時間と体験が奪われてしまうという視点が重要です。
 依存症を起こすタバコ・アルコール・ギャンブルなどでの子どもを守る規制はありますが、ネット依存に関しての予防・対策はほとんど皆無の状態にあります。タバコやアルコールやギャンブルは「断つ」ことが治療になりますが、ネットは断つことではなく「うまく使いこなす」ことが求められます。子どもの発達年齢の特性を考えながらマイナス面の影響を極力少なくして、未来を生きる子どもを育てることは私たち大人の大きな課題です。
 2004年2月に日本小児科医会は「子どもとメディアの問題に関する提言」を発表しました。また同年4月には日本小児科学会も「乳幼児のテレビ・ビデオ長時間視聴は危険です」という警鐘を鳴らしました。2011年にアメリカ小児科医会は、2歳以下の子どものメディア接触は教育的または発育的に有益であるエビデンスは認められないと発表しました。
 我々、小児科医はそれぞれの地域での啓発活動を担っていかなければなりませんが、メディア依存の「先進国」韓国を見習って、国家レベルで予防・対策に取り組まなければならないと思います。

2017年9月のひとりごと

九州旅行

修復中の隈本城
まだ手つかずの場所も・・・
阿蘇カルデラ
 今年の夏休みの旅行は、迷わず九州旅行にしました。3泊4日の日程で熊本と大分を旅してきました。一番の目的は、熊本地震から1年4か月が経過した熊本城の復興の様子を見てみたかったことです。平成26年10月に熊本で第50回日本赤十字社医学会総会が開かれ、発表した時に熊本城を訪れました。このとき、広大な敷地に囲まれ、石垣の上にどっしりと構える天守閣の姿が見事であり、大変感動しました。しかし、昨年の熊本地震で天守閣の屋根瓦や石垣を始め甚大な被害を受けてしまいました。その修復には長い年月と莫大な費用を要すると言われています。今回、二の丸広場と加藤清正を祀る加藤神社からしか見ることが出来ませんでしたが、その被害は想像以上のものであり、まだ手付かずのところも多く、復興も始まったばかりとの印象でした。せめてもの思いで、熊本城災害復旧支援金(復興城主制度)に協力させていただきました。
 旅の一日目は熊本城見学の後、天草を訪れました。熊本を訪れるのは4回目でしたが、天草まで足を延ばしたのは今回が初めてでした。三角西港、天草五橋、天草四郎メモリアルホール、潜伏キリシタン関連遺産などを見た後、宿泊は天草下島にある下田温泉の離れ宿のVillaにしました。キリスト教が伝来した中世の天草がテーマの宿であり、エキゾチックな気分に浸りました。前日の雷の影響でテレビが映らなくなっており、テレビを見ない宿泊も良い経験になりました。
 私は土曜の朝のテレビ番組「旅サラダ」が好きで、かなり以前から欠かさず見ています。そして、いつもゲストが旅をしたときに泊まる宿やホテルをメモしておいて、旅行や学会の時に泊まる場所の参考にしています。今回、一日目に泊まった宿は9月2日に放送される予定だそうで、二日目に泊まったのも黒川温泉(白川源泉)のある宿で、以前に番組で紹介された所でした。竹林に抱かれた広大な敷地内にわずか12室の露天風呂付客室が点在し、十分に自然と源泉かけ流し風呂を楽しめました。また宿に向かう途中、阿蘇外輪山の大観峰から見たカルデラと阿蘇五岳の壮大な姿には大変感動しました。
 三日目は池山水源、久住花公園、九重夢大吊橋、由布岳、ステンドグラス美術館、高原美術館などを見てまわり、宿泊は湯布院御三家(三大旅館)の一つで、客室数が全17室のかけ流し木風呂が魅力の旅館にしました。ここには、ニコルズバーという温泉宿には珍しい洒落たバーがあり、久しぶりに美味しいスコッチを飲み堪能しました。小説家でナチュラリストでもあるC.W.ニコルが宿泊した時に「温泉宿にも気軽に飲めるバーがあってもよいのでは」との提案を受けて出来たそうです。
 翌日は朝食前に近くの金鱗湖まで散歩し、朝食後は湯の坪街道などいくつかの通りを散策し、いろいろな買い物を沢山しました。今回、夏の旅行の天気は最初は曇りのことが多く、晴の日は阿蘇、由布院などの高原であったので、それほど暑くはなく快適に旅することが出来ました。

2017年8月のひとりごと

学校保健委員会

 7月6日に、私が学校医をしている小学校の学校保健委員会が開かれました。今回のテーマは「小学校の子どもの健康問題を考える」であり、出席者は児童保健給食委員会6年生の3名、PTA会長、副会長3名、保健体育部長、保健体育部2名、校長、教頭、教諭、学校栄養士、養護教諭と眼科学校医の先生と内科学校医の私でした。
 最初に児童保健給食委員会から、児童全員に行った食生活アンケート結果(朝ごはんの状況、野菜摂取の状況、就寝起床時間、体調について)が報告されました。朝ごはんを食べない日が週に1日以上ある児童が9%、寝る時間が午後11時以降になる児童が3%いることが問題点として挙げられました。次に養護教諭から健康診断結果が報告されました。そこで、給食のお代わりをしないなどの取り組みの結果、肥満傾向児童の全員が前年度より肥満度が改善している状況であることが説明されました。
 最後に、前もって校医に出されていた質問に対してお答えしました。質問は「①姿勢が悪い子どもが多いように思います。学校ではどのような指導をすればよいでしょうか。また、家でのしつけはどのようにすればよいのでしょうか。②いらいらして落ち着きがない子どもがいます。落ち着いてやる気のある子どもするには、どうすればよいでしょうか。③自己中心的でわがまま、我慢ができない子どもがいます。我慢ができる子どもに育てるにはどうすればよいでしょうか。④子どもが学校に行きたくないと言い出した時の、親の対応の仕方を教えてください。」の4つでした。お答えの時間は全部で20分しかなかったので、前もってプリントしたもので補足させてもらいました。それに対する質問もたくさんあり、10分しかなかった時間では答えきれませんでした。
 次に、学校保健委員会について説明します。学校保健委員会は、学校における健康における課題を研究協議し、健康づくりを推進するための組織です。その構成は、校長、養護教諭・栄養教諭・学校栄養職員などの教職員、学校医、学校歯科医、学校薬剤師、保護者代表、児童生徒、地域の保健機関の代表などを主な委員とし、保健主事が中心となって、運営することとされています。
 昭和33年の学校保健法等の施行に伴う文部省の通知において、学校保健計画に規定すべき事項として位置付けられています。また、昭和47年の保健体育審議会答申においても、「学校保健委員会の設置を促進し、その運営の強化を図ることが必要である。」と提言されています。しかし、平成27年度の学校保健委員会の設置率は、小学校95.5%、中学校94.5%、高等学校93.1%にとどまっています。また、設置されていても開催されていない学校や、年1回のみの開催が多く、充実した議論が行われていないなどの質的な課題が指摘されています。
 私が校医をしている小学校では、年に1回ですがずっと開催されています。
 今までのテーマは「子どもの頃からの生活習慣予防」「子どもの肥満の予防と治療」「心の健康づくり」「喫煙、飲酒、薬物乱用の防止」「感染症の予防・対策の徹底」などについてでした。また5~6年生の児童と、教職員、保護者を対象とした講演会を行った年度もありました。

2017年7月のひとりごと

受動喫煙防止

 5月31日は「世界禁煙デー」でした。このとき徳島県内の24市町村の本庁舎受動喫煙防止状況を徳島新聞が調査しました。驚くなかれ、このうち10市町が本庁舎内の建物内の全面禁煙を実施しておらず、徳島市に至っては唯一、建物内の分煙もできていませんでした。敷地内の全面禁煙がなされていたのは美波町だけでした。病院や学校は全て敷地内禁煙となっていますので、行政施設の受動喫煙防止対策が進んでいないことが浮き彫りになりました。(平成29年6月1日「徳島新聞」朝刊より)
 現行の健康増進法では、官公庁の受動喫煙防止対策については努力義務にとどまっています。厚労省の改正案では、建物内の全面禁煙を義務づけ、違反した場合は罰則適応も検討されています。しかし、与党の強い抵抗によりいまだ改正法案は成立しておりません。各種団体により受動喫煙防止に向けた署名活動が展開されていますが、日本医師会でも約300万人以上を目標に署名活動を行いました。
 そこで今回のブログではあらためて、受動喫煙の有害性について説明します。まず、受動喫煙で吸い込む点下部から出る副流煙は、喫煙時にフィルターを通過する主流煙より害が大きいという事です。主流煙を「1」とした場合、副流煙ではニコチン(血流を悪化)が2.8倍、タール(ヤニ・発がん物質)が3.4倍、一酸化炭素(酸素不足を招く)が4.7倍、アンモニア(目を刺激する)が46倍、ベンツピレン(発がん物質)が3.4倍、ニトロソアミン(発がん物質)が31倍も含まれています。
 受動喫煙で報告されている「悪影響」と「病気」については、①すぐに表れる影響として、目がしみる等の目の痛み、喉の痛みや咳、心拍数の増加や冷え性などの血管収縮などがあります。②長期的な影響としては、肺がん、副鼻腔がん、子宮頸がん、呼吸機能の低下、脳卒中、心筋梗塞、動脈硬化、糖尿病などがあります。③妊婦や新生児に対する影響として、流産や早産、乳幼児突然死症候群、出生時の低体重児化などがあります。
 子どもが受動喫煙にさらされると、乳幼児突然死症候群(SIDS)の原因となり、また喘息発作、急性気管支炎、肺炎、慢性副鼻腔炎、アデノイド増殖、中耳炎、扁桃肥大、髄膜炎、ペルテス病、歯肉着色、アトピー性皮膚炎等々の原因にもなります。
 さらに病気での入院が増える、身長の伸びが悪くなる、知能の発育が劣る、虫歯になりやすい、成人後の発がん率が高くなるなども報告されています。
 子どもたちの健康のためにも、ご自身の健康のためにも喫煙している方は是非、禁煙していただきたいと思います。「禁煙しよう」と決めたら、禁煙指導を受けられる病院(禁煙外来)を受診することをお勧めします。タバコに対する心理的依存(習慣)、イライラなどの離脱症状(禁断症状)を起こすニコチン依存は、医師やお薬の力を借りなければ、なかなか克服できるものではありません。病院(禁煙外来)では、医師が身体・精神的にサポートし、禁煙できるように導いてくれます。徳島県内の禁煙治療に保険が使える医療機関は2017年3月1日の時点で170施設あります。また日本禁煙学会の禁煙専門・認定指導者のいる医療機関も9施設あります。是非、利用してください。
 

2017年6月のひとりごと

伊予歩き遍路日記

松尾峠
第40番札所 観自在寺
柏坂遍路道からの絶景
5月の大型連休に、いよいよ伊予路「菩薩の道場」を歩いたので、歩き遍路日記2をブログします。
「男もすなる日記といふものを、私もしてみむ」

<2017年5月3日(憲法記念日)曇り後雨>
 今年もゴールデンウィークを利用して歩き遍路に出かけた。JR徳島駅を特急剣山1号で6:48に出発した。土佐くろしお鉄道,宿毛駅には12:04に到着した。近くのコンビニでクロワッサンとおにぎりを買って食べ出発したが,誤って国道56号を5分ほど歩いてしまい,引き返して遍路道に戻った。いつも、5分以上歩いて「遍路マーク」が無ければ、遍路道かどうかを確かめるようにしている。
 しばらく歩くと松尾峠にさしかかった。伊予と土佐の境にある標高300mの峠であるが,途中から雨が降り始めた。天気予報が良かったため,雨具は一泊目のホテルまで宅配してしまったので,峠を雨に濡れながら苦労して超える羽目になり,いきなり厳しい修行をさせられた。松尾峠は,高知県側は昔ながらの遍路道で歩くのに苦労したが,愛媛県側はきれいに整備されており歩きやすかった。雨足が強くなってきたので,今日は愛南町一本松で歩くのを終了しタクシーを呼んだ。宿泊は愛南町御荘にあるホテル(2食付き9500円)にした。
31日目:宿毛駅から愛南町一本松まで10.5km, 22,000歩 

<2017年5月4日(みどりの日)曇り>
 タクシーで愛南町城辺まで送ってもらい,7:40に歩き始めた。約3km歩いて,8:40に第40番札所観自在寺に到着した。観自在寺は伊予の札所「菩提の道場」の始まりである。
 
第40番札所観自在寺
 平城天皇の勅願所として大同二年(807)弘法大師により開創された。本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来,十一面観世音菩薩は,弘法大師が一本の霊木から作ったと伝えられている。第1番札所の霊山寺から一番遠いところにあるので「四国霊場の裏関所」と呼ばれている。仁王門から本堂への途中には愛嬌のある姿をした3匹のかえるの石造「栄かえる」があった。

 国道56号をしばらく歩き、由良半島を見渡す喫茶店で休憩した。喫茶店の上品な奥様から「フランス産の塩」の接待を受けた。次に向かう峠がきついので途中で舐めてくださいと言われた。その峠は内海村の柏地区から山に上がっていく急こう配の道,柏坂遍路道のことであった。旧宇和島街道へと抜ける標高460mの峠を越えるかなり険しい山道であり,およそ10kmの長い距離を約4時間かけて,昇り降りした。野口雨情が内海村を訪れた時に詠んだ「松の並木のあの柏坂,幾度涙で越えたやら」などの雨情の詩碑が所々にあり,それらを読みながら登り,途中の,上り龍のような由良半島の起伏に富んだ美しい海岸線の絶景を望み,何とか辛い峠越えに耐えることが出来た。
 峠を下り終え,国道56号と交わるところの津島町畑地で今日の歩き遍路を終えた。タクシーで宿泊する津島町高田にあるビジネスホテルまで送ってもらった。夕食はホテルの隣にあるお寿司屋で頂いた。
32日目:愛南町城辺から津島町高田まで24km,45,000歩

<2017年5月5日(こどもの日)晴れ時々曇り>
 コンビニで買ったパンとミルクとスープで朝食をすませ,ホテルを7:00に出発した。今日はJR宇和島駅までをゆっくりと歩くことにした。
国道56号の緩い坂を上っていくと松尾トンネルがあり,その入り口脇左方向に旧遍路道の入り口から,今回二度目となる「松尾峠」を越えた。県境の「松尾峠」が難所であったので,こちらは傾斜もそれほどきつくはなく,自然を楽しみながら歩いた。峠道を下っていくと工事現場のような採石場を通り,その横には似つかわしくない和風のデザインの大きなゴミ焼却場が建築中であった。
昼食は市内にあるカレー専門店に初めて入り,1日20食限定の「じゃこ勝つカレー(975円)を食べた。スパイスが効いていて美味しかった。宇和島市中心部まで来ると,大型連休のため観光客で混雑していた。14:00には宿泊するホテルに到着した。チェックインまで時間があり商店街アーケードを散策した。徳島のアーケードほどは寂れてはいなかった。
33日目:津島町高田からJR宇和島駅まで11km, 25,000歩

<2017年5月6日(土曜日)曇り時々雨>
翌日、JR宇和島駅9:47発の特急宇和海10号で帰途についた。
 

2017年5月のひとりごと

土佐歩き遍路日記

第38番札所 金剛福寺
天然記念物 アコウの木
第39番札所 延光寺
 昨年3月の三連休以降は、スローペースで土佐路を歩いています。その後の土佐歩き遍路日記をブログします。
「男もすなる日記といふものを、私もしてみむ」

<平成28年4月29日(昭和の日)快晴>
 土佐くろしお鉄道中村駅に11:32に到着した。タクシーで前回歩き終えた、四万十C.C.入口まで乗せてもらった。降りるときに運転手さんから四万十川について説明していただき、蛇紋石の接待を受けた。サンドペーパーで磨けば艶が出て美しくなるそうだ。12:00から歩き始めたが、すぐに四万十川の川べりに腰を下ろして、おにぎりとたこ焼きの昼食を摂った。しばらく歩くと新伊豆田トンネル(全長1620m)という長いトンネルに出くわした。歩き遍路の辛いことの一つは、車の騒音と排気ガスに満ちたトンネルの中を歩くことである。そこから約8kmのところにある今日、宿泊する「民宿いさりび」(土佐清水市久百々)に15:45に到着した。民宿いさりびは海に面した景色の良い場所にあり、比較的、部屋も風呂もきれいであり、清水サバやカツオのたたきなど海の幸も美味しかった。

<平成28年4月30日(土)快晴>
 民宿いさりびを7:45に出発、玄関で女将さんから袋入りの飴の接待を受けた。第38番札所金剛福寺までの遍路道は東岸、西岸、県道348号の3ルートあるが、私たちは東岸経由を選んだ。途中の以布利港には大阪海遊館の海洋生物研究所、以布利センターがあり、ジンベイザメの特別公開をしていて、見学する幸運に恵まれた。途中の窪津漁港でちらし寿司とメロンパンを買って、近くの丘の上で海を見ながら昼食を摂った。足摺岬の金剛福寺に着いたのは、予定どおりの14:30であった。足摺岬はゴールデンウイークのため大勢の観光客でごった返していたが、寺の境内は比較的人は少なく静かだった。

第38番札所 金剛福寺
金剛福寺は、若き日の弘法大師が修行したと伝えられる四国の最南端の足摺岬にある。ビロウや椿の林を通って境内に入ると、正面左手に大きな池と多くの岩があり、それを囲むように、本堂、大師堂、愛染堂、不動堂、弁天堂、多宝堂などが立ち並んでいた。納経所では母の分と私たちの分の2冊に納経していただいた。
 金剛福寺から1.9kmの距離にある、本日、宿泊する「足摺パシフィックホテル花椿」に着いたのは15:30であった。ここは天皇皇后両陛下や皇太子さまなど皇室が泊まられたホテルであるが、特別室があるのだろうかと心配した。部屋からは太平洋が一望でき、少し離れた大露天風呂からも雄大な景色が眺望できた。翌日は朝食前に観音ウドが見える展望台まで散歩した。

<平成28年5月1日(日)快晴>
 足摺パシフィックホテルを8:15に出発し、西岸周りに歩いた。少し行ったところのだるま夕日が見られる時があるとの場所で海を眺めていると、地元のおじさんが来て、だるま夕日の説明をしてくれて、小さなドラゴンランプ(部屋の明かり)の接待を受けた。土佐清水市松尾には樹齢300年、天然記念物のアコウの木があり見学した。アコウは他の木の幹に着生し、気根が寄生の樹幹を覆っているものだそうだ。
 約8km歩いて、今回の歩き遍路を終えた。松尾小学校前のバス停で高知西南交通バスに乗り、中村駅まで90分で到着した。昼食は物産館サンリバー四万十敷地内にある「いちもん家」でうな重をいただいた。物産館から窪川の小夏を宅配してもらい、お土産に芋けんぴも買った。そして土佐くろしお鉄道中村駅から帰途についた。

<平成29年3月18日(土)曇り>
 昨年のゴールデンウイーク以来、しばらくぶりに歩き遍路に出かけた。今日は土佐くろしお鉄道の中村駅までの移動であり、パークアンドライド(1日600円)を利用してホテルクレメント徳島に車を停め、JR徳島駅、阿波池田駅、高知駅、中村駅までJRを乗り継いだ。宿泊は中村駅から徒歩5分の「ホテルクラウンヒルズ中村」というビジネスホテルにした。3連休の初日であり、満室であった。夕食は前回利用したサンリバー四万十敷地内「いちもん家」で、はりこんで、四万十御膳(3240円)を頂いた。鮎の化粧焼き、鰻の蒲焼、川海老の唐揚げ、藁焼き鰹たたきなどどれも美味しかった。

<平成29年3月19日(日)晴れ時々曇り>
 7:30にタクシーで、新伊豆田トンネルを出たところにある真念庵まで送ってもらい、8:00に歩き始めた。第39番札所延光寺までは約21kmであり、主に三原村という所を歩いた。ほとんど車の通っていない遍路道であり、ゆっくりと歩いたが、5時間ぐらい歩くと私の足が少し痛くなり、妻より重さが倍以上のリュックを背負っていたので、妻の歩くスピードついていくのに難儀した。途中、三原村の宮ノ森あたりで、おにぎりとサンドイッチの昼食を摂った。足が悲鳴を上げながら延光寺にたどり着いたが、21km歩くのに6時間半を要した。延光寺の近くには、重症心身障害児(者)施設、幡多希望の家があり、利用者の方が車いすで散歩をされていた。

第39番札所 延光寺
 延光寺は、土佐路の西南端にある「修行の道場」最後の霊場である。神亀元年(724年)に行基が聖武天皇の勅命を受けて薬師如来像を刻んで本尊とし開基した。後に弘法大師が、日光・月光の両菩薩を刻んで脇侍として安置し、39番札所と定めた。山号は赤亀が梵鐘を背負って寺に現れたという伝説に由来する。本堂は広々とした境内の右奥手にあり、その隣にはひとまわり小さな大師堂がある。本堂の右手には庭園があり、その前に「目洗いの井戸」が残されている。
 15:00に延光寺を出発し、1時間だけ歩いた後、平田町にある聖ヶ丘病院前までタクシーに迎えに来てもらった。今夜の宿である、宿毛市大島にある「宿毛リゾート椰子の湯」までは15分ぐらいで到着した。宿毛湾を一望できる大展望温泉(棚田状露天風呂)に入ってリラックスでき、足の痛みも解消した。また夕食時のレストランから見た宿毛湾に沈む夕日の素晴らしさに感動した。これで17日間かけて区切り打ちを行い、やっと、土佐路「修行の道場」の歩き遍路を終えた。

<平成29年3月20日(春分の日)曇り時々晴れ>
 いよいよ、伊予路「菩薩の道場」に向かってスタートした。前日歩き終えた、聖ヶ丘病院前までタクシーに送ってもらい、8:50に歩き始めた。宿毛駅までの5.5kmをゆっくりと歩いた。そして宿毛駅付近で今回の歩き遍路を終了とした。宿毛駅前の食堂で昼食を頂き、12:50発の土佐くろしお鉄道宿毛線に乗り帰途についた。
 

2017年4月のひとりごと

不登校について

 昨年12月に、不登校の児童生徒を国や自治体が支援することを初めて明記した議員立法の「教育機会確保法」が参院本会議で可決、成立しました。また昨年7月には文部科学省初等中等教育局長の諮問機関である「不登校に関する調査研究協力者会議」が、「不登校児童生徒への支援に関する最終報告」を「一人一人の多様な課題に対応した切れ目のない組織的な支援の推進」という副題を掲げて提出しました。調査研究協力者会議からの不登校に関する報告書が出されたのは平成4年、平成15年に次いで3回目でした。そこで今回の園長ブログでは不登校について述べます。
 私が小児科医として不登校の子どもたちと関わりだしたのは、平成5年前後からですので約25年になります。1年間に病院外来を受診したり、スクールアドバイザーとして学校現場や総合教育センターで相談を受けた子どもは年間約80人おりましたので、実に2,000人ぐらいの不登校で困っている子どもたちに関わったことになります。
 文部科学省による不登校の定義は「何らかの心理的、情緒的、身体的、あるいは社会的要因・背景により、登校しないあるいはしたくてもできない状況にあること(ただし、病気や経済的な理由によるものを除く)」であり、今回の教育機会確保法では「学校を相当の期間欠席しており、集団生活に関する心理的な負担などで就学が困難な状況」としています。私自身があえて定義するならば「学校に行きたくても、あるいは行かなければいけないと分かっていても、何らかの強い抵抗感・拒否感を感じ、登校することが出来なくなって困っている、あるいは苦しんでいる子どもたち」という表現になります。
 私のところに来る不登校の子どもたちは、多くがそれまでに家族や学校と登校するしないで葛藤し、かなりの程度に疲弊しています。また、学校に行けなくなった自分自身に対して自己肯定感や自尊心が低下してしまっています。そこで私はまず、どの子に対しても「病院に来てくれたことをねぎらい」「小児科医は全面的に子どもの味方になる」ことを伝えます。そして、「これまであなたが学校に行かなかったことは、あなたにとっては大事な、必要な休養であった」と肯定的に捉えることを勧めます。次に「これから先に自分のしたいことが元気に出来るようになるために、体勢を立て直しエネルギーや力を蓄えていく」ことを目標に掲げます。
 具体的な対応は、臨床心理士による心理面接及び心身症的な症状や二次的に陥っている気分障害・睡眠障害に対する薬物投与を行いますが、最も大切なことはその子の心理社会的要因を十分に理解するということです。不登校の子どもたちを見ていますと心理社会的な要因は一人ひとり様々であり、100人いれば100通りの処方箋が必要です。次に大切なことは家族への対応と学校との連携です。家族が子どもの状態を適切に理解し、味方になれている場合や学校関係者が子どもの心理社会的状況を理解していただいている場合は、比較的早くに子どもたちは前に向くことが出来ます。そうでない場合は、どんなに子どもに対してアプローチしてもうまくいかず、長引いてしまいます。
 現在、不登校はどの子どもにも、どの家庭にも起こっているように見えますが、家庭と学校が子どもを信頼して、味方になって対応すれば、ほとんどのケースで乗り越えることが出来ているように思います。
 

2017年3月のひとりごと

性的マイノリティとは

 本年1月14日に第15回徳島メンタルヘルス研究会が開催され、宝塚大学看護学部教授の日高庸晴先生に「児童・青年期における性的指向と性別違和について」と題して、講演をしていただきました。そこで今回のブログは、性的マイノリティについて述べます。

 性的マイノリティ(性的少数者)とは、性的マジョリティ(自分の性別に違和感のない異性愛者)に対する言葉です。性的マイノリティの方は人口の約5~10%は存在すると言われており、マイノリティと言っても、想像するより多い数字と言えます。
 性的マイノリティをLGBTと言いますが、L(レスビアン):女性の同性愛者、G(ゲイ):男性の同性愛者、B(バイセクシャル):両性愛者のLGBを性的指向と言い、T(トランスジェンダー):性同一性障害を性別違和と言います。性的指向は治療の対象になりませんが、性別違和は生まれた時の法的・社会的性別とは違う性別で生きる人、生きたい人であり、治療の対象として認められています。
 性別違和の方々が望む性別への在り方も、さまざまであり人により違いがあります。法的に性別変更を望む人、性転換手術を希望する人、ホルモン療法だけで良い人、医療を選択しない人など多様です。また小児を見ていますと、性的指向や性別違和は年齢が進むにつれ変化することもあるようです。
 性的マイノリティの方々は、そのことでからかわれたりイジメを受ける割合が高く、抑うつ傾向や自傷行為・自殺念慮の割合も高いことが多数報告されています。また、小児では不登校となる割合も高くなっているようです。
 学校では、制服に象徴されるように男か女のどちらかに区別されることが多くあります。その度に性別違和を持つ子どもは苦痛を感じています。本当の自分のことを言えない、理解されないであろうとする心的葛藤に加えて、第二次性徴の時期に自分が望まない体に変化していくことに絶望すら感じています。性別違和を持つ女子(男子)生徒なら典型的な男性(女性)になることを望んでいるとは限らず、男性か女性のいずれかに自分を定義することが出来ずに、苦悩している子どもも存在しています。
 文部科学省は平成22年4月に、人権教育についての事務連絡「児童生徒が抱える問題に対しての教育相談の徹底について」で、性同一性障害のある児童生徒に対して、個別の事例に応じたきめ細かな対応が必要であり、学校関係者においては、児童生徒の不安や悩みをしっかりと受け止め、児童生徒の立場から教育相談を行うことが求められると通知しました。さらに平成27年4月にも、文部科学省通知として「性同一性障害に係る児童生徒に対する学校の支援の事例」が出されました。
 私たちは、学校や職場に性的マイノリティの方が存在しているかもしれないという意識をもって過ごすこと、発言することが大切であり、また何よりもLGBTについて深く、正しく理解することが必要だと思われます。
 

2017年2月のひとりごと

平成28年度日本赤十字社中国・四国各県支部合同災害訓練

 昨年は4月14日に熊本地震が熊本・大分で起こり、10月21日には鳥取県中部地震が起こりました。被災された皆様には心よりお見舞い申し上げます。
徳島赤十字ひのみね総合療育センターでは、地震・火災などの災害時における各病棟・支援施設毎の避難訓練を月に1回のペースで行っており、またセンター全体の訓練も年に2回行い、備えを万全なものとする努力をしております。さらに今年は3月11日に、ひのみね総合療育センター及び障がい者支援施設ひのみねのすべての部署が合同で災害救護訓練を行う予定にしております。
 昨年の11月12日と13日の二日間、平成28年度日本赤十字社中国・四国各県支部合同災害訓練が徳島赤十字病院と徳島市河内町の旭野運動公園で行われました。当センターからも多くの職員が参加しました。訓練想定は、平成28年11月12日、午前8時に四国沖を震源とするM8.6クラスの地震が発生し、徳島市では、震度6強を観測、繁華街と住宅密集地で家屋の倒壊が多数確認され、それらに巻き込まれ下敷きになった被災者が多数発生、また、主要幹線道路は各所で寸断し、電気・水道・ガスの供給が停止、電話もほとんど繋がらない状態となり、津波による浸水の影響も懸念されるというものでした。
 大規模災害発生時に中四国各県支部の相互支援体制の確立と広域救護活動の円滑化、防災関係機関との連携強化を図ることを目的に合同訓練が実施されました。中四国各県支部の救護班やDMAT、徳島県消防防災航空隊、徳島県警察本部、徳島市消防局、徳島海上保安部、看護学校や大学の学生、学生ボランティア、各種赤十字奉仕団など総勢約600人が参加しました。仮想災害現場の旭野運動公園にはドクターカー、救急車、消防車のサイレンが鳴り響き、防災ヘリも着陸し、緊迫した空気に包まれました。私もすべてを視察させていただきましたが、連携のとれた充実した素晴らしい合同災害訓練であったと思いました。

 

2017年1月のひとりごと

新年あけましておめでとうございます

 皆様、新年あけましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりありがとうございました。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 私どもの医療・福祉の仕事は24時間、365日、途切れることのない連続したものでありますが、年の初めに当たり改めて、当センターの基本理念である「私たちは、利用される皆様と心を通わせ、質の高い医療・福祉サービスを提供し、豊かな生活に向けての支援を行います。」を確認したいと思います。そして今年1年、全ての職員が心も身体も健康であり、良い仕事ができることを祈念したいと思います。

社会保険診療報酬支払基金の審査

 私は平成25年6月より徳島県社会保険診療報酬請求審査委員会の審査委員に就任しています。まず支払基金が何をしているかについて説明します。支払基金は、保健医療機関(薬局)からの診療に係る医療費の請求が正しいか審査したうえで、健康保険組合(保険者)などへ請求し、健康保険組合から支払われた医療費を保健医療機関へ支払する仕事をしています。
 私ども審査委員は、保健医療機関の個々の診療行為が、保険診療ルール(診療担当規則、診療報酬点数表、関連通知)に適合しているかどうかを確認します。具体的には、記載事項の確認、診療行為の名称、点数、回数、医学的な適否などの確認、医薬品の名称、価格、適応、用法、用量、医学的な適否などの確認、医療材料の名称、価格、用法、使用料、医学的な適否などの確認を行います。県内の小児科医療機関の1か月に約2~3万件のレセプトを一人で4~5日間かけて審査しますが、全てのレセプトに目を通すわけではなく、高額点数レセプトや重点医療機関のレセプトを中心に審査し、一般診療所のレセプトは特定の診療所の他は事務職員のチェックで指示されたものだけを審査します。

 また、電子レセプトにおいては、コンピューターが網羅的にチェックした項目を職員が的確に審査事務をおこなうことにより、審査委員が効率的に審査を行うことができるようになっています。
 保険診療ルールは、さまざまな状況の患者に適切な医療を提供するという医療の性格上、「投薬は必要と認められる場合に行う」とか医薬品の用法・用量の規定では「年齢・症状により適宜増減」が認められるなど、診療する医師等に一定の裁量を認めるものになっています。個々の診療行為が保険診療ルールに適合しているか否かの審査は、機械的に判断できないものも多く、個々の症例において審査員の医学的判断が必要になり、非常に気を遣うしんどい仕事です。
 多くの医療機関のレセプトを審査していると、治療や検査などその診療内容にそれぞれ特徴がみられ、医師の診療姿勢や性格まで垣間見ることができ、興味深いこともあります。社保支払基金の審査委員の定年は徳島赤十字ひのみね総合療育センターと同じく70歳ですので、私はまだしばらくの間はこの仕事を続けなくてはなりません。頑張ります。

2016年12月のひとりごと

重症心身障害とは

 先日、徳島県重症心身障害児(者)を守る会、創立30周年記念式典が開催されました。私も出席させていただき、「重症心身障害の概念と定義の変遷と現状」の演題で記念講演をいたしました。そこで今回のブログでは重症心身障害について説明させていただきます。
 今年の職員採用試験の面接の際に「重症心身障害について説明してください」と質問すると、正確に答えられる人が少なかったことに驚かされました。重症心身障害とは「重度の知的障害と重度の肢体不自由が重複した状態」をいいます。これは、1967年(昭和42年)に児童福祉法一部改正により初めて定義され、今日まで続いているものです。重症心身障害児(者)は医学的にも社会的にも多くの問題を抱えており、医療と福祉の両面から強力な支援が必要です。なお重症心身障害児(者)を多くは、重症児(者)と略します。
 1967年に重度知的障害と肢体不自由児の重複を重症心身障害と定義しましたが、現に入所している人、もしくは入所を予定している人は、従来の方針を維持することとされました。また、最重度の知的障害単独で「動く重症児」と通称された人たちの入所も継続されました。さらに、重症心身障害児(者)として処遇することが必要と考えられる場合や、その地域に対応する社会資源が乏しい場合などは、重症児施設に入所させることができるとしました。
 2012年(平成24年)施行の障害者自立支援法のつなぎ法にて、重症心身障害施設は廃止され、満18歳未満は児童福祉法下の医療型障害児入所施設とし、満18歳以上は障害者自立支援法下の療養介護事業所となりました。また、特例的な取扱いにより児者一貫した処遇が継続されることになりました。さらに、重症心身障害児(者)通園事業が法制化されました。このときに、施設名称から重症心身障害の名は消えましたが、入所者の障害名としての重症心身障害は残りました。
 医療型障害児入所施設及び療養介護事業所は医療が生活に必要な人たちが入所する施設であり、病院の形態をとっています。最近では医療ニーズの高い重症児(者)の利用が増えており、継続的な医療的ケアの程度を基準とした介護度の評価をまとめて、超重症児(者)、準超重症児(者)の判定基準が出されました。現在、ひのみね総合療育センターに入所している超重症児(者)は12名、準超重症児(者)は14名です。
 最後に、私どもの(旧)重症心身障害児者施設は大きな問題に直面していることをブログします。それは、平成30年3月までとされている、重症心身障害児者施設における児者一体運用の特例措置が継続されるかどうかという問題です。日本重症心身障害福祉協会等の厚生労働省への働きかけがうまくいくことを祈らざるをえません。

2016年11月のひとりごと

阪田章聖先生との別れ

 先日、徳島赤十字病院外科部長であった阪田章聖先生とのお別れの会が徳島赤十字病院とホテルクレメント徳島でありました。私は徳島大学医学部の同級生であり、40年間もの長い間ともに診療を続けてきた阪田君がお亡くなりになったことに、昨年亡くなった自分の父親の時と同じように涙が溢れ出て、溢れ出ながらに、お別れの会に参列いたしました。
 私は阪田君と同じく昭和45年に徳島大学医学部医学科に入学しました。そして一緒に医学部準硬式野球部に入部いたしました。彼は滋賀県彦根市の出身であり、私から見れば都会的でダンディーな雰囲気があり、すぐに親しくなり下宿にもよく伺いました。卒業後は大変スマートな阪田君でしたが,当時は少し太っていて先輩からは「ぶーちゃん」と呼ばれ可愛がられていました。彼は途中で退部されましたが、卒業後はそれぞれ外科医、小児科医の道に進み、彼との関わりはお亡くなりになるまでずっと40年間もの長い間、続きました。
 昭和54年にはお互い高知赤十字病院に勤務し、若かりし木村 秀先生や津田 洋先生などと一緒にがむしゃらに診療しながら高知の夜を楽しんだことが思い出されます。阪田先生は2度目の小松島赤十字病院に昭和58年に赴任され、私は後を追うように昭和60年に赴任いたしました。そこから30年間もの長い間、小児科医として小児外科医でもある阪田先生には本当にお世話になり、数々の小児外科疾患の手術をしていただきました。「すまん阪田、頼むよ」と言うと、いつも「ああいいよ、やります」と言って、どんな困難な手術でも引き受けていただき、治療していただきました。先天性食道閉鎖症、先天性横隔膜ヘルニア、先天性胆道閉鎖症、十二指腸穿孔、小腸穿孔、腸回転異常症、鎖肛、鼠径ヘルニアなど数多くの疾患、そして多数の子ども達の手術をしていただき、ほとんど全ての症例で根治をしていただきました。
 私が平成27年の徳島赤十字ひのみね総合療育センターに移動した年に、阪田先生も徳島赤十字病院を定年退職され、その後も、それまでと同じように非常勤ですがフルタイムで勤務されていました。非常に体調が思わしくないことが感じられた時に、私が「先生、どうなん、いけるん」と聞くと、いつも笑顔で「いや、大丈夫ですよ」と言う答えでした。
 思えば私と阪田先生との付き合いは非常に長かったにもかかわらず、あまりプライベートなことを話したことはなく、家族や子どものことを話題にしたことはお互いにほとんどありませんでした。趣味も全く異なっておりましたので、本当に医師として診療を通しての親密でかつ長い関わりであったと思います。
 それだけに、私にとりまして40年来の同僚医師、阪田章聖先生とお別れすることは大変無念であり、全く受け入れがたい思いでいっぱいです。謹んで、阪田君のご冥福をお祈りいたします。
 

2016年10月のひとりごと

西日本肢体不自由児施設運営研究会

 61回西日本肢体不自由児施設運営研究会が98日と9日の二日間、沖縄県那覇市で開催されました。西日本から20施設が参加し、当センターからは私と看護部長とリハビリテーション課長が参加しました。私は前日に神戸空港からANA3725便で那覇空港に向かいました。台風13号の影響は那覇空港上空までは全くなく順調に飛行しましたが、那覇空港上空には積乱雲が発生しており、着陸の許可が下りるまで空中待機をするとのアナウンスが機長からありました。そして約25分間ものあいだ、雲の上をゆっくりゆっくりと飛行を続けました。飛行機の窓から見下ろすとあちこちで同じように航空機が空中待機しており、異様な光景にたいへん緊張しました。無事に空港に着陸できましたが、台風の影響か那覇市では滞在した3日間とも、毎日大雨警報が出されました。

今回の研究会は沖縄中部療育医療センターが担当され、パシフィックホテル沖縄で開催されましたが、行き届いた素晴らしい運営であったと思います。第一日目は、主催者・来賓挨拶の後、約3時間にわたり各部会が開かれました。私は運営部会の協議に参加しました。協議事項1「災害時における情報共有と医療・療育支援上の必需物資供給及び人的派遣等の協力に関するネットワークづくりについて」は旭川療育園が提出された災害支援ネットワーク原案が承認されました。協議事項4「肢体不自由児施設・重症心身障害児施設で心理指導を担当する職員の業務について」では当センターの臨床心理士の業務について情報提供しました。また運営研究会の中で心理指導を担当する職員が協議できる部会については、当面は指導部会で行うことになりました。協議事項8「医療型障害児入所支援における今後の入所利用の在り方について」は各施設とも療養介護の占める割合が増加しており、平成30以降も現特例措置が保証されるかどうかが懸念されるところでした。

懇親会は同ホテルの万座の間で開かれ、オリオンビールと泡盛の古酒を沢山いただき、沖縄料理を味わいながら他施設の方と交流しました。余興は担当施設の職員が沖縄伝統芸能エイサーを披露してくださり、大変盛り上がりました。 

第二日目は講演1「脳の可塑性について」沖縄科学技術大学院大学の杉山陽子氏と講演2「人づくりの種をまく!~命が輝く感動舞台~」公益財団法人沖縄県文化振興会理事長の平田大一氏を聴講しました。平田大一さんは小浜島の生まれで、2000年からうるま市の子ども達による「現代版組踊 肝高の阿麻和利(きむたかのあまわり)」を、05年「現代版組踊 大航海レキオス」、06年「第4回世界ウチナーンチュ大会開会式アトラクション」等の脚本・演出を手がけ、国内外の観客から好評を博した方です。今、沖縄で最も注目される、行動する詩人、若き演出家、地域活性化の旗手として絶大な支持を集めているそうです。講演では、うるま市の子ども達が「肝高の阿麻和利」という舞台経験を通して地域学びをし、自分たちの地域に誇りを持てるようになり、また子ども達を支えていた大人たちも変わり、そしてついには街全体も変わっていくという事を話されました。こんなにも感動し涙を流しながら聞いた講演は久しぶりでした。

感動が冷めやまぬ中、私は次の予定である第34回日本小児心身医学会学術集会参加のため長崎空港行きのANA1872便に搭乗しました。

2016年9月のひとりごと

東北旅行

 私は、「趣味は何か」と問われると「四国88ヵ所歩き遍路と硬式テニス」の次には「旅行」と答えることにしています。東日本大震災以降は、夏休みの旅行をなるべく東北地方に出かけるようにしています。ここ数年で東北を旅したのは、福島、会津若松、裏磐梯、遠刈田温泉、仙台、松島などです。そして今年の夏休みには34日で青森県に行ってきました。

徳島空港からJAL一便で羽田空港まで飛び、JR東京駅から東北新幹線はやぶさに乗り2時間53分でJR八戸駅に到着しました。星野リゾート青森屋の送迎バスに乗り、午後315分に青森屋にチェックインしました。翌日は送迎バスで星野リゾート奥入瀬渓流ホテルまで行き今回の旅行の最大の目的である奥入瀬渓流の散策に出かけました。

奥入瀬渓流は十和田湖の子ノ口から焼山までの約14kmの流れで、豊かな樹木や十数ヵ所の滝と、千変万化の美しい流れや様々な奇岩・奇勝が見事な渓流美を作り出しており、四季折々の自然美を堪能できるということでした。私たちは三乱の流れから銚子大滝までを約3時間かけてゆっくり歩きましたが、あいにく渓流は数日前の雨の影響で茶色く濁っており、大変がっかりしました。しかし、森の香りと自然美を楽しみながらの散策は身も心も大いに癒されました。

翌日は台風10号の影響で天候が悪かったため、十和田湖、八甲田山の観光は取り止め、観光タクシーで青森市に向かいました。奥入瀬、十和田、八甲田では雨の天気でしたが、青森市に入ると一転して晴れ間が見られました。途中、日本最大規模のアーチ橋である城ヶ倉大橋を渡った時に、橋の下の城ヶ倉渓谷に虹がかかっており、上から眺めたその虹は丸い形をした初めて見る光景であり、感動しました。

 青森市内では、ねぶたの家ワ・ラッセで鳴り物を体験したり、棟方志功や寺山修司、奈良美智、成田享などの青森県出身の作家の作品が多数展示されている青森県立美術館を巡ったり、浅虫水族館を見学したりしながら、宿泊する浅虫温泉海扇閣に到着しました。陸奥湾に面した浅虫温泉はそれほどでもなかったのですが、夜の津軽三味線のライブには大変感動し満足しました。

 最終日は昼過ぎに青森空港からJALで羽田空港まで飛ぶ予定でしたが、台風10号が東北地方を直撃しそうなので、急遽、宿の朝食をキャンセルして、新青森駅を午前617分に出発する新幹線はやぶさ4号で東京に向かうことにしました。これがまさに大正解であり、新幹線は始発ということでがらがらで、台風も上陸前で新幹線にはほとんど影響はありませんでした。羽田空港から徳島空港までは台風の影響は全くなく、予定どおり無事に帰徳することができました。

 今回来た台風10号は観測史上初めて東北地方に上陸したものであり、岩手県の高齢者グループホームで9名もの利用者さんが犠牲になる痛ましい被災をはじめ、岩手県や北海道に甚大な被害を及ぼしたことに非常に衝撃を受けました。

2016年8月のひとりごと

2016年7月のひとりごと

ほほえむちから

 何気なしにBS放送を見ていましたら、非常に懐かしいミュージシャン、小室等がギター片手に歌っていました。小室等は昭和43年に結成されたフォークグループ六文銭のリーダーで「出発(たびだち)の歌」などが有名でした。久しぶりにその歌声を聴いたのですが、その歌はジーンと私の心に染み込みました。それは谷川俊太郎・作詞、小室等・作曲の「ほほえむちから」という歌でした。
 
ほほえむちから (詩 谷川俊太郎)
 
いまここにいきるわたしは
いのちのねっこでむすばれている
いまそこにいきるあなたと
わたしとあなた あなたとわたし
それぞれのなまえでよばれ
わたしはひとり あなたもひとり
でもホモサピエンス あいをはぐくむ
 
いまここにいきるわたしは
あなたがいないといきてゆけない
うまれたてのいのちのように
わたしはひかり あなたをてらす
それぞれのおいたちいきて
くるしむわたし くじけるあなた
でもほほえむちから こころにひめて
もどかしいからだ
とぎれることば でもいるだけで
いるだけで かがやくいのち
 
 ※社会福祉法人グロー様ホームページより転載(転載もとはこちら

 「ほほえむちから」は糸賀一雄先生・生誕100年を記念して作られ、平成26年3月29日「糸賀一雄生誕100年記念式典第1部」で発表されました。
 糸賀先生の実践と理念を今に受け継ぐ作品として、全国に広く普及することを目的にCDが発売されています。 糸賀一雄先生は池田太郎氏、田村一二氏と共に戦後間もなく滋賀県大津市に近江学園を設立し、戦災孤児と障がいのある子どもたちの共同生活の中に「共生社会」と「人がありのままに存在することの価値」を見出し、「この子らを世の光に」という言葉を残されました。
 その療育は職業訓練においても窯業や農業、一般企業での障がい者雇用の促進や、グループホームの先駆けである民間下宿の取り組みなど、障がいのある人が地域と繋がりながら暮らす場を創造してきました。さらに、絵画、陶芸、音楽などの表現活動にも取り組み、障がいのある人の造形活動やダンスワークショップとして脈々と受け継がれています。
 日本の障がい福祉の礎となったこれらの思想と実践には糸賀先生・生誕100年を過ぎた現代においても、より一層学ぶべき真の豊かさがあるのではないでしょうか。

2016年6月のひとりごと

土佐の歩き遍路

 昨年5月のゴールデンウイーク以来となりましたが、今年の3月19日からの三連休に、久しぶりに土佐路の歩き遍路(修行の道場)に行ってきました。3日間ともに快晴の天気でラッキーでしたが、初日は最高気温が23度と少し暑く、3日目は最高気温が12度と少し肌寒く感じられました。
 前回はJR影野駅(四万十町)まで歩いていました。今回はJR徳島駅6:48発の特急を乗り継いで、JR須崎駅には10:30に到着しました。乗り継ぎ時間を利用して,駅前にある「すさき駅前食堂」で有名なご当地B級グルメ、鍋焼きラーメンをいただきました。熱くて大変おいしかったです。鈍行列車でJR影野駅に着いたのは11:45で,ここから歩き遍路をスタートしました。第37番札所岩本寺までは約10kmで2時間30分の時間を要しました。途中の四万十町仁井田という所で個人がされている、歩き遍路接待処「風自遊庵:ふじゆうあん」で休ませていただき、おいしいコーヒーと日本茶の接待を受けました。
 JR窪川駅近くにある岩本寺は、四国霊場で唯一,5体の本尊を安置する寺だそうです。仁王門をくぐると右手に歓喜天,大師堂,本堂の順に並び,本堂内陣の格天井画は、昭和53年の新築の際、全国から公募した花鳥風月から人間曼荼羅まで575枚の絵が彩っています。仏様やマリリンモンローなどテーマは多彩で、この世の全てに仏性が宿るという仏教の教えの曼荼羅とも見えました。  
 第37番札所岩本寺を14:45に出発し、第38番札所金剛福寺までの四国霊場で札所間が最長90kmの歩き遍路が始まりました。普通のスピードで歩いて28時間を要する距離であり、いよいよ修行の道場の始まりとなります。とは言うもののこの日は17:30まで歩いて、遍路道沿いにある「土佐佐賀温泉こぶしの里」に宿泊しました。土佐佐賀温泉はヌルつとしたお湯が特徴で保温性もよく、歩き遍路の疲れが癒されました。また海・山の幸の会席料理もおいしく、従業員のサービスも満足できるものでした。
 翌日は、8:00に土佐佐賀温泉こぶしの里を出発し、ひたすら歩き続けました。昼食は「道の駅ならぶ土佐佐賀」でおにぎりとサンドイッチを買って、土佐白浜という所で海を見ながら食べました。8時間ほど歩き土佐入野まで来たところでこの日は終了にしました。タクシーを呼んで2泊目の宿、「四万十の宿」まで乗せてもらい16:30に着きました。降りるときに運転手さんから、おいしそうな大きな文旦の接待を受けました。四万十の宿は四万十川の河口にあるなだらかな丘に佇む30室のリゾートタイプのホテルで、温泉施設も併設されていました。私たちはメゾネットタイプの部屋に泊まり、ゆっくりと温泉に入り、豪華な会席を頂きました。四万十牛の陶板焼き、四万十川天然アユの塩焼き、中村のカツオ塩タタキがとてもおいしかったです。 翌日は,四万十の宿を8:00にタクシーで出発し、前日歩いた場所まで乗せていってもらいました。そこから2時間ほど歩くと、四万十川に架かる四万十大橋(全長687m)に到着しました。雄大な四万十川を眺めながらゆっくりと橋を渡ると、疲れも取れ、清々しい気分になれました。さらに1時間ほど歩いて、四万十C.C.入口付近で今回の歩き遍路を終了としました。タクシーで土佐くろしお鉄道,中村駅まで戻り、13:24発の特急を乗り継いで徳島まで帰りました。自宅に着いたのは18:30でした。

2016年5月のひとりごと

熊本地震の医療救護活動

センターでの出発式
 日本赤十字社が東日本大震災から5年が経過する今年3月に、日本全国で、「私たちは、忘れない。」~未来へつなげる復興支援プロジェクト~を展開しました。当センターも参加し、キャンペーンを行っている最中に熊本地震が熊本・大分で起こりました。天災は「忘れた頃にやってくる。」と以前から言われていましたが、この度は「私たちは、忘れない。」の最中にやってきましたので、非常に衝撃を受けました。
 しかも4月14日のマグニチュード6.5(最大震度7)が前震で、28時間後のマグニチュード7.3(最大震度7)が本震であったとの気象庁の見解も前代未聞のことでした。またマグニチュード7.3は1995年(平成7年)に発生した阪神・淡路大震災と同規模の大地震であったことも驚きでした。
 今回の地震で最も私の心が痛んだのは、倒壊家屋の多さもさることながら、大学生などの若い命が数多く奪われたことであります。また、余震が続く熊本県では、「自宅は怖い」と避難所や車の中で暮らす人々も多く、エコノミークラス症候群で入院した人が46人にも上る(5月1日現在)ことも今回の衝撃的な出来事でした。
今回の地震の災害救護活動のため、4月16日に徳島日赤DMAT(災害派遣医療チーム)として1チーム、及び日本赤十字社徳島県支部救護班として第1班が出発し19日に帰院しました。4月30日には医療救護活動のために、第3班として徳島赤十字ひのみね総合療育センターが、洲﨑一郎医師を班長に8名で出発し、益城町避難所等で活動し5月3日に帰院いたしました。余震の続く中、3日目は暑い中、また帰りは強風の中、皆さん大変ご苦労様でした。お疲れ様でした。ひのみね総合療育センターを代表して活動していただきありがとうございました。また、出発前のミーティングに参加していただき貴重なご助言と申し送りをしていただきました徳島赤十字病院の福田靖先生(第2班・班長)および徳島県支部の島本敬子課長(第2班・班員)にお礼申し上げます。
 全体として災害は収束に向かいつつあるとのことですが、余震はまだまだ大きなものがあり、大雨による二次災害にも注意が必要です。また、家を失った人は未だ多数おいでになり、避難所や車中での生活を強いられています。この状況はすぐには改善されるものではなく、当然、長期化すると考えられます。今後は、メンタルヘルス対策、エコノミークラス症候群発生の防止、ノロウイルスなどの感染症対策、慢性疾患で治療中の患者様への処方などの長期的支援が必要と考えられます。

2016年4月のひとりごと

施設通所サービスについて

 今月は施設通所サービス及び外来診療部門についてご説明します。
 まず、徳島赤十字ひのみね総合療育センターが実施している通所サービスには、短期入所事業、日中活動支援事業、児童発達支援センターの児童発達支援/放課後等デイサービス、障害児等療育支援事業があります。
 短期入所事業は、ご家族が疾病・出産・冠婚葬祭などの社会的理由や旅行・休養などの私的理由により、一時的に施設を利用できるサービスです。
 日中活動支援事業(旧重症心身障害児(者)通園事業)は、定員5名(1日につき)で、在宅の障害児者を対象に通所による訓練や療育を行い、家庭での悩みごとの相談に応じ、必要な情報提供を行うなど、憩いの場を提供します。また、平成28年度よりひのみね支援学校の小学生を対象に放課後デイサービスを、まずは少人数から始める予定です。
 児童発達支援センター(児童発達支援/放課後等デイサービス)は、旧乳児院跡地に集団活動棟及び屋外遊技場を新設したことにより定員を20名(1日につき)に増やし、発達障害のある未就学児や就学中の児童を対象に通所による訓練や療育を行い、日常生活における基本的な動作の獲得や社会交流の促進に向けた支援を行います。
 障害児等療育支援事業は障がいのある児童や知的障がい者のための相談・療育事業です。身近な地域において訪問や外来による療育指導、保育所や幼稚園等の関係機関等に対する指導や支援を行います。
 

 徳島赤十字障がい者支援施設ひのみねが実施している通所サービスには短期入所事業と相談支援事業があります。
 短期入所事業はご家族が疾病・出産・冠婚葬祭などの社会的理由や旅行・休養などの私的理由により、一時的に施設を利用できるサービスです。
 相談支援事業(障がい者相談支援センターひのみね)は圏域の2市1町(小松島市、阿南市、那賀町)の障がい者に対して必要な情報提供や、関係機関の紹介、在宅福祉サービスの利用、社会資源の活用や社会生活力を高める等の支援を総合的に行うことにより、障がい者やその家族の自立と社会参加の促進を図ります。

 次に外来診療部門ですが、主に自閉症スペクトラム障害、ADHD、学習障害などの発達障害、てんかんや精神運動発達遅滞などの小児神経疾患、心身症、神経症や不登校などの小児心身医学領域疾患、先天性股関節脱臼や脳性麻痺などの小児整形外科疾患を対象としています。小児科、神経小児科、整形外科、内科、精神科、歯科で対応しています。
 また、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士による小児リハビリテーション機能も充実させています。脳性麻痺をはじめ、ペルテス病・二分脊椎などの整形外科疾患や精神運動発達障害の患者様のいろいろな症状に対してボバース概念に基づき、理学療法士・作業療法士・言語聴覚士がチームアプローチで療育を援助いたします。治療は、患者様の状態に合わせたプログラムを組み、主にマンツーマンで行います最後に心理治療部門ですが、常勤の臨床心理士2名が心理検査やカウンセリングを行っています。
 心理検査は医師の指示を受けて心理検査(発達検査、知能検査、人格検査など)を実施し、対象者の心理アセスメントを行います。心理カウンセリングは医師の指示を受けて、適応上の困難を抱えた子どもや保護者に対して心理カウンセリングを実施し、心理的支援を行っています。
 以上が施設通所サービスおよび外来診療部門です。ご遠慮なくご利用いただくようにお願いいたします。

2016年3月のひとりごと

施設入所サービスについて

私が園長に就任いたしましてやがて、やっと1年になります。その間に、多くの方から「ひのみねってどんなとこ」「どんなこがいるの」という質問を頂きました。そこで、あらためて徳島赤十字ひのみね総合療育センターについて説明させていただきます。
 
 
当施設は平成18年に徳島県から日本赤十字社徳島県支部が経営委譲を受け、徳島赤十字ひのみね総合療育センターと改称いたしました。
 
 まず今回は施設入所サービスからご説明します。当センターは「徳島赤十字ひのみね総合療育センター」と「徳島赤十字障がい者支援施設ひのみね」の二つの施設で構成されています。ひのみね総合療育センターは病院機能を有した社会福祉施設であり、児童福祉法に基づいた「医療型障害児入所施設」と障害者総合支援法に基づいた「療養介護」の2つのサービスを提供し、定員は両サービスで併せて140名です。1病棟、2病棟、3病棟の3つの病棟に分れて入所しています。
 
 医療型障害児入所施設は18歳未満の手足や体幹の機能に障がいのある子どもたちや重度の肢体不自由と重度の知的障がいを併せ持つ子供たちのために、医療・看護・リハビリテーションの提供と入所生活の支援を行います。また1病棟では呼吸管理等を必要とする超重症児及び準超重症児に対する医療的ケアを行っています。
 療養介護は18歳以上の重症心身障がい者を対象に機能訓練、看護、医療的管理の下における介護、日常生活の世話その他必要な支援を実施しています。また呼吸管理等を必要とする超重症者及び準超重症者に対して医療的ケアを行っています。
 
現在18歳未満の児が30名、18歳以上の方が106名であり、今後も18歳未満の小児割合は減少する傾向にあります。
 
 障がい者支援施設ひのみねは18歳以上の重度身体障がい者を対象とした社会福祉施設であり、障害者総合支援法に基づき日中における「生活介護」と主に夜間のサービス提供を行う「施設入所支援」を実施しております。入所利用者数は50名(定員50名)で平均年齢は60歳を超えており、最高齢は91歳の女性の方です。生活介護は主として昼間において、日常生活の支援を行うと共に、自立の促進等の支援や介護、生活等の相談・助言を実施しています。また施設入所支援は主として夜間において、生活介護に準じた支援を実施しています。
 
 施設通所サービス及び外来診療については来月のブログで紹介させていただきます。
 

2016年2月のひとりごと

月曜日のルーチーンワーク

 私の月曜日の日課はここ何十年もの間,基本的には変わりなく続いているので,ルーチーンワークと言ってよいものです。
 
 朝は前日の就寝時間にかかわらず,必ず午前6時30分に起きます。朝食はご飯の時とパン食の時がありますが,毎日必ずゴーヤジュースを飲みます。最近は365日,1年中、ゴーヤが手に入りますので本当にルーチーンワークになっています。ちなみに私の飲むゴーヤジュースは,1人前がゴーヤ,四分の一と凍らしたバナナ,二分の一に牛乳100mlを混ぜミキサーしたものです。飲みやすくて健康に良いですので是非,皆さんにもお勧めです。
 
 朝、8時頃に車で家を出ますが,自宅からひのみね総合療育センターまでは近いので8時10分頃には着きます。ゆっくりとメールやひのみねのホームページを見たり,その日の外来予約の子どものカルテに目を通します。そして午前中は主に外来で診療し,合間に決裁に目を通しハンコを突きます。その後,毎週月曜日の11時半から開かれる医局会に出ます。昼休みには,昨年から毎日、弁当を持参するようにしておりそれを食べますが,健康のためになるべく昼食量は少なくしています。
 
 午後は徳島赤十字病院の小児科外来で診療を行います。病院までの往復は散歩の時間でもあり、よい気分転換になります。外来は主に心身症関連疾患の子どもたちの診療であり,臨床心理士と協力して行っています。そして夕方には3名の臨床心理士と,毎週月曜日に研修に来ている鳴門教育大学と文理大学の2名の大学院生と一緒にケースカンファレンスを行います。そして5時半過ぎに一旦,療育センターに帰ります。メールを見たり,午後の報告を受けたり,急ぎの決裁があればそれを行います。そしてなるべく午後6時過ぎには,お先に失礼するようにしています。
 
 帰宅すると,すぐに急いで赤石にある小松島市立体育館に直行し,硬式テニスを午後7時から9時半までばっちりプレーし、楽しみます。これは30年間ずっと続けているので、私のルーチーンワークになっています。テニスが終わり自宅に帰ってからは入浴し,その後,報道ステーションを見ながらゆっくりと夕食をとります。もちろんビールと赤ワインはたくさん飲みます。そして午後11時には就寝するようにしております。
 
 これが,私の月曜日のルーチーンワークとなっています。
 
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